FREAKY 13 DEAKY

酔いどれの誇りと踊る熊たちへ愛を込めて

長渕剛の詩「復興」に違和感

2011-04-07 21:47:24 | 日記
悲しさと、怒りと、もどかしさと、とまどい、ジレンマ・・・・こんな複雑な気持ちを表現するのに、

これが誰もが皆が思っている共通の認識だ!なんていう内容なら、とても違和感を覚える。

「原因と結果の法則」の危ない落とし穴は、一つ。

「こういう一つの結果が出たことは、ある一つの原因が引き起こしたことなのだ。」と短絡的に思い込んだ時なのだ。

これは違う。

様々な原因が複雑に絡み合って、ある通過点で定点観測をした時に人はそこに一つの結果を見つけるのではないのだろうか。

そしてその結果とやらは即また次の原因となって過ぎ去ってしまう。

つまり、いっけん魑魅魍魎な原因には複雑怪奇な結果がついてくる、その連続が「原因と結果の法則」だと思うのです。

天災と人災が絡み合い、人間も動物も植物もあらゆるものが巻き込まれていく今その中で、これがその「張本人」なんだろうとぶつけるのは

なにか違う。

子供っぽい犯人捜しにみえるし、とても収まりきれない複雑な問題を気持ち放り投げて単純化しようとする弱さが見え隠れするのです。

そしてこれを沢山のメディアが、ホレ待ってました!とばかり取り上げる流れにに強い違和感を覚えるのです。

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トランプ、おばあちゃん、小学一年生のわたし、そして・・・・・

2011-04-03 19:57:52 | 日記
それが何故なのかは、未だにまったく分からない。

仕事中、昼どき中、契約書の読み合わせ中、洗車中、晩酌中、トイレ休憩中、古淵のヨーカ堂で買い物中、領収書作成中、デート

中、ダウンタウンのガキ使観賞中、慌てて朝風呂中、etc・・・・・・・・・・・・・・・・・

シチュエーションは決まっていないのだが、突然思い出す場面が私にはある。

もう、何十年前の死ぬ前のおばあちゃんの後ろ姿。

昼間、小さなアイロンテーブルで一人トランプをしている後ろ姿。

*       *        *

私のおじいちゃんの(つまりおばあちゃんにとっては、旦那さんの)お仏壇がある自分の和室の部屋に居ていつもトランプで

何か遊んでいました。ゲームをしているのか占いをしているのか、今でも厳密には分かりません。おばあちゃんが亡くなって、

30年以上たった今でも分かりません。記憶はあります。おばあちゃんと昼間二人っきりでいて、孫の私がそばに寄ってもまるで

気にかけず、こちらに目も向けず夢中に(みえる)な

ってやっているトランプ遊び中に私は「おばあちゃん!何やってるの?僕も入れて!やり方教えて?」と

5~6歳のガキンチョ独特の図々しさで声をかけてみました。

夢中になって動かしていた手をピタリと止めて、おばあちゃんはニッコリ笑って「マー坊には、分からんよ。

出来ないよ。あんたは遊んでお隣で遊んでらっしゃい。」と私の頭をなでながら答えてくれました。

それからも、おばあちゃんは家事も済ませた後の昼間の時間をトランプで過ごしました。

私はそれ以降、家の廊下からおばあちゃんの部屋へ入らず、声をかけて邪魔もせず、トランプをやっている

後ろ姿だけが残りました。

おばあちゃんは、私の母方のおばあちゃんです。

私はおばあちゃんの名前をいまだに知りません。

八幡山のおばあちゃん。

ずっと、そう呼んでいた。

世田谷区八幡山に暮らしていたから、そう呼んでいたのでしょう。

お墓参りもするし、それこそ自分の親から聞けばすぐに解明できることなのに私にはするつもりはこれからもないです。

(私にとってのものさえ)しっかりと掴んでいればそれでいいと思えるから。

人はお金も土地も株も名誉も「その時」が来たらもっていくことはできない、とある人は言います。

そうなんだろうと思う。

いや違うか・・・正確に言えば、実際どうなのかそこんところはさっぱり分からない・・・。

ただ時間に、風化しない思い出や思い込みは自分のものに出来るような感じがする、ということだろうか。

人は経験したことから、どう感じ取ることの、すべてなのかもしれない。

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