☆わんこと一緒の想い出と共に☆

シェルティと暮らしていたマールママの記録と記憶のためのページ

生と死と

2012年02月20日 | ある日の出来事

去年の今ごろ、私は埼玉の叔母の 看取りのことで奔走していた。

あれから一年。。

一昨年は、上の姉の旦那さんが亡くなり

そして、またひとり・・・

あの日、達筆な筆文字の弔辞を読んでいた従兄のYO兄が亡くなった。

雪の降りしきる寒い時期に届く訃報は、ことさら胸に痛い・・・

仲の良かった実家の兄は二人の側近に先立たれ、どんなにか寂しいことだろう。

年老いた叔母は「私たちのような年寄りが長生きして、可哀そうに・・・」と電話で泣いていた。

YO兄の妹 YU子からは「親・兄弟がひとりづつ欠けて逝くのが寂しい・・・」とメールが届いた。

 

 

昨年の秋、抗がん剤の治療を受けるため 私の夫も放射線の治療に通った病院に

入院することになったYO兄は 「腎臓がんで余命3ヶ月の宣告を受けた」と自ら淡々と話してくれた。

夏に食欲がなくなり、急にやせてきたのは暑さと胃の調子が悪いくらいにしか思っていなかったらしい。

ずいぶん昔、盲腸やったことぐらいで 病院にかかったことなどなく

まじめで仕事熱心な人だから、検査を受けた時には すでに手術も無理なほど転移が進んでいたらしい。

自宅からは遠い病院で、私が一番近かったこともあり 病室に顔を出すと、とても喜んでくれた。

余命・・・に触れ、どう言葉をかけていいのかわからなかったが

「先生が言ったのは、そのままにしていれば・・ということであり今は医療も進んでいるから大丈夫よ」と励ました。

「俺もまだ死んではいられない」と本人も治療には前向きで同室の人たちとも明るく話をしていた。

しかし、ひとりで静かにしているとき どんな思いでいたのだろう・・・

 

私はこれまで、YO兄と二人で ゆっくりと話したことなんてなかった。

姉と二人で旅行をした話や、「もう仕事は辞めてゆっくりしたほうがいいよ」というと

「春になったら千葉の妹のお墓参りと、横浜の叔父さんと一杯やりたい」と言っていた。

こうして普通に話ができる時間に限りが付いているというのが信じられなくもあり、

とても大切な時間にも思え、できるうだけ会っておこうと思った。

 

入院して間もなく 電気カミソリを買ってきてほしいと頼まれて買いに行ったとき

いつまで使えるのだろう・・・と、急に悲しみがこみあげてきた。

 

正直私は、どんどん悪くなっていくYO兄の様子を見るのが怖かった。

幸い初めの入院治療中は激しい副作用に見舞われることもなく髪の毛もぬけないまま治療を終え

いつもの明るい笑顔で感謝の言葉を残し、自宅近くの病院へ転院して行った。

 それが私の見たYO兄の最後の姿となってしまった。

 

その後、退院し自宅に帰ってからも雪囲いをしたり病人らしくなく元気そうだと聞いていたが

1月になり 東京からYU子が会いに来たときは、ずいぶんとやせてショックだったとのこと。

それから間もなく入院し、容態が芳しくないと聞いたが

私は風邪をひいていたこともあり見舞いに行くことができなかった。

 

でも、私の胸に残っている顔は、元気そうなあのままで よかったのだと思う。

これから会う お葬式でのYO兄は 小さな箱の中・・・

(こちらでは葬儀の前に火葬が行われる)

 

「よく来てくれた!」いつもの笑顔が浮かんでくる。

 

 

 

私は、きのうYO兄の入院していた病院に、4カ月ぶりに 足を運んだ。

あの時と、同じ駐車場に車を止め、同じ病棟の方に歩いて行くとき 

あの頃を思い出し 切ない気持ちだった。

 

エレベーターで、あの時より高い階にある 一室を見舞った。

昨年暮れ、急逝した夫の妹の長女に 元気な赤ちゃんが生まれた。

 

新しい命の誕生 

 

失われて行く命の一方で 輝かしい命の誕生に 思わず笑みがこぼれた。