姫路城探訪 -15-
2025年4月6日、そして4月18日に姫路城へ行ってきました。その様子を数回にわたって紹介しています。
今日はその15回目。
今回は、百間廊下です。
読んでみましょう。
この曲輪は、姫路城主本多忠政が大坂夏の陣のあと、将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子忠刻のために、元和4年(1618)に御殿を建てたところで、「中書丸」ともいわれていました。 中書とは、忠刻の官職 中務大輔(なかつかさだゆう)の唐名(とうめい)です。
御殿を囲むように築かれた長屋は通称「百間廊下」ともいい、約300mの長さになります。そのうち、ヨの渡櫓から北の部分が長局(ながつぼね)です。小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸の御殿で働く女中が住んでいたとみられます。
長局の北端に化粧櫓があります。大きく開放された窓や床の間、畳敷きなど、ほかの無骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えになっています。千姫が男山にある天神社を拝むため西の丸 に来た際に、身づくろいをしたり、休息した場所といわれています。
ワの櫓です。
ここから靴を持って入場します。
渡櫓を歩きます。
このような展示がいくつかありました。その一部を紹介していきます。
平山城から三重天守をもつ城へ
姫路平野の中央に姫山という小さな丘陵があり、姫路城はこの山頂部に築かれた平山城です。 その端緒は赤松貞範の時代ともいわれますが、大きな転機となったのは、天正8年(1580) 羽柴秀吉が播磨国を攻略したことです。 秀吉は三重天守を築き、山腹には石垣を積んで曲輪を造りました。
白亜の姫路城完成と城下町整備
慶長5年(1600)、池田輝政が姫路城主になると、秀吉の三重天守を取り壊して、同じ場所に五重天守と3基の小天守を築きます。 縄張りは踏襲しつつも、高石垣を築くなど大改修を行い、城下町も既存の町場を取り込みながら拡大させ、全体を総構で囲い込みました。 また、飾磨津と城下町を結ぶ運河を建設し、飾磨津に外港としての機能をもたせました。
行政機能を考慮した合理的な城へ
本多忠政が城主になると、西の丸を新たに増築します。 そこに嫡男忠刻の御殿を建てるとともに、城の防御を向上させるため百間廊下と呼ばれる長屋を築きました。 また、本丸にあった御殿は、広い三の丸に移しました。戦乱の時代が終わり、行政機能の充実が必要になっまた時代に合わせた増改築でした。
千姫ゆかりの西の丸櫓群
ワの櫓から化粧櫓まで約240m。 とても長い廊下が続いているこの長屋群を「百間廊下」と呼んでいます。 2階建の櫓と櫓の間は、渡櫓と呼ばれる長屋で結ばれており、別名多門櫓とも呼ばれます。“天守の無い城はあっても、 多門櫓の無い城は無い”といえるほど、江戸時代の城郭に不可欠な建物です。 倉庫にも住居にも、 さらに防御施設として機能する上、構造も単純で解体して移築することも容易でした。
「百間廊下」も場所によって構造に違いがあります。西の丸に本多忠刻の御殿があった時期、局として使用されたのはヨの渡櫓から北側の長屋と考えられます。
「百間廊下」の特徴
〇レの渡櫓
廊下がなく、倉庫として利用されていたようです。
〇タの渡櫓
潜り戸付扉があり、そこから北側は廊下がつきます。
〇ヨの渡櫓・カの渡櫓
各部屋に納戸が付属、天井が張られるなど、人が住むことを想定した造作になっています。
歴代城主は49人いますが、その主な人です。
画像出典 https://blog.goo.ne.jp/taiseimaru05/e/2e22130e7020342359a9f9ef288a82d7
「歴代城主の瓦紋」にもいろいろあり、残っています。
◍ 五三の桐 ・・・・・・・・・・・・・ 豊臣氏
◍ 五七の桐 ・・・・・・・・・・・・・ 木下氏
◍ 揚羽蝶 ・・・・・・・・・・・・・・・ 池田氏
◍ 立 葵 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 本多氏
◍ 沢瀉(おもがた) ・・・・・・・・・ 松平(奥平)氏
◍ 三つ巴 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 松平(越前松平)氏
◍ 源氏車 ・・・・・・・・・・・・・・・ 榊原氏
◍ 剣酢漿(けんかたばみ) ・・・ 酒井氏
◍ 十文字 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 黒田氏
榊原忠次の時代には「万年様」と呼ばれ庶民に慕われ、塩田の開発や商業発達を促し経済活動を活発にし、基盤を作りました。
しかし、寛保17年(1732年)政岑(まさみね)の時代には吉原から高尾太夫を3000両で落籍し、徳川吉宗の怒りを買い、蟄居、高田へ国替えとなっています。
お隣の好古園あたりには高尾太夫の住まいもありました。(説明より)
榊原忠次は徳川四天王の家系を誇りにしていたそうです。
「レの渡櫓」ここから外部に出られます。
ここに出ます。
千姫やお女中もこの景色を見ていたのかな?
石落としです。
レの渡付近から北東方向を見ています。
ヲの櫓内部です。
狭間です。
大戸
「ヲの櫓(奥)」と「タの渡櫓(手前)」の間の扉は、廊下の扉とは思えないほど頑丈な造りです。ここから先は女性の居住区ということで、夜間の防衛(防犯?)上のことでしょう。
「タの渡櫓」からは廊下があり、このような小さいながらも独立した部屋が並びます。
展示の一部です。
伝統の技術
姫路城は、慶長6年(1601) の池田輝政による大改修により完成。明治政府の廃藩置県や第二次世界大戦の空襲など、幾度かの消滅の危機を乗り越え、大、小の天守群をはじめとする多数の木造城郭建築群が、築城当時とほぼ変わらない姿で約400年後の今日まで伝えられています。
姫路市では、平成6年(1994) 度から同34年 (2022) 度にかけて「姫路城平成中期保存修理計画」を策定し、今日まで伝えられた姫路城の保存・継承に加え、伝統的な技術の保護、 職人の育成を図っています。
木組
大工の仕事。材をのばすために同じ方向に継ぐ「継手」、直角や斜めに組む 「仕口」。このつの技法が、日本建築の伝統工法を支えている。
漆喰
左官の仕事。 防火性が高く、調湿機能に優れた。
自然素材を活かした漆喰は、四季によって変化する日本の気候にあった貴重な伝統技術である。
石垣
石工の仕事。 石垣のある近世城郭の建築は織田信長に始まり、短期間で急速な発展をとげ、日本特有の城郭建築に欠かせない技術となった。
伝統の技術 瓦
姫路城に使用されている屋根瓦は、1,150℃の高温で約2時間から3時間の持続焼成により焼き上げられた、非常に耐久性の高い瓦です。
軒丸瓦等には城主の家紋が施されます姫路城は江戸時代を通じて多くの大名が入れ替わり城主となったため、初代の池田氏から最後の城主である酒井氏にいたる各大名家の家紋を見ることができます。
なお、大天守の瓦の家紋は、 築城時の城主である池田氏の揚羽蝶紋、桐紋に統一されています。
伝統の技術 木組
地下1階、地上6階の姫路城大天守は、地階から6階床まで伸びる2本の大柱 (直径約1m弱、長さ約24.5m) を軸に、3階床までを通し柱を用いて整形な軸組とし、その上に4~6階を梁間、桁行を順次低減させ乗せた望楼型の天守です。
大規模な建造物では、部材毎に必要な継手を用いて繋ぎあわせた材木が、 長材として使用されています。 これら継手や仕口は、木造建築の長い歴史の中で強度や意匠性が少しずつ改良され、伝統的な木造建築を支えています。
伝統の技術 漆喰
漆喰は、外観の美しさと防火、防水の実用性を兼ね備えた壁面の仕上げ材です。 姫路城では内壁、 外壁用の 「壁漆喰」のほか、屋根瓦の継ぎ目にも「屋根目地漆喰」が施されています。 姫路城で使用されている漆喰の主な材料は、消石灰、 貝灰、 萌で、これらを銀杏草(海藻)から煮出してつくった糊で練り上げて漆喰とします。 これを土台の土壁の上や屋根目地に塗りあげ、 白鷺城とも称される白亜の姿を創出しています。
千姫色彩乾漆座像
説明を読んでみましょう。
千姫は、慶長2年(1597)、 のちの江戸幕府2代将軍徳川秀忠と江の長女として生まれました。 7歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、 慶長20年、大坂夏の陣で秀頼と死別。 その翌年、 本多忠政の嫡男忠刻と再婚しました。元和3年(1617)、 本多忠政が姫路へ転封になると、忠刻とともに姫路城に移りました。
本像は土の原型の上に砥粉や木屑入りの漆を厚く塗りその上に麻布を張ってその作業を繰り返し行なう伝統的な技法によって作られた乾漆像です。 羽子板を手に勝姫、幸千代たちの遊ぶ姿を慈愛あふれる目で幸せそうに見つめる千姫を表現したもので、 容姿や服装は 「本多平八郎姿絵」などからイメージして造形されたものです。
逆さ揚羽紋。今回、探せませんでした。
次回に再挑戦します。
ヨの渡櫓
埋め門
大戸
化粧櫓
ここは千姫の休息所で、居室は西の丸。
千姫が本多忠刻に嫁いだ際、将軍家から
贈られた10万石の化粧料の一部を使用し
て建設されたと言われる。階上には18畳
15畳、窓辺に6畳の3室をとって、天井に
は杉柾張り、壁面はすべて黒い木枠に紙
を張ったものをはめ、隅々まで技巧を凝
らした住宅様式になっている。千姫が城
の西北にある千姫天満宮を遥拝する際に
休憩所としてこの化粧櫓を使用した。
出口です
動画です。
姫路城 西の丸櫓群と長局(百間廊下)- Himeji Castle (Hyogo Prefecture, Japan) 4K Scenic Film
明日に続きます。明日は、好古園です。
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