宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

409 昭和2年の賢治の上京(#9)

2012年10月26日 | 『賢治昭和二年の上京』
☆4 柳原昌悦の証言
 4つ目は、宮澤賢治研究家C氏がかつて柳原昌悦から直接取材した際に得た
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけども。
という証言である。この証言は仮説〝♣〟を裏付けているが、それはこの証言を元にして立てた仮説だから当然のことである。
 つまり柳原は、大正15年12月2日の賢治の上京の際には澤里と一緒に賢治を見送ったということを証言している訳である。またこの証言は、澤里がチェロを持って上京する賢治をひとり見送ったのは昭和2年の11月の霙の降る日であったということを導き出す証言にもなっている。

☆5 『宮澤賢治日記(昭和2年版)』
 5つ目は賢治の日記からである。一般に賢治は日記を書いていないということだが、昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)、いわば『宮澤賢治日記(昭和2年版)』に限っては一部が残っている。そしてそこには次のようなことが書かれている。
 「大正十六年日記」の〝三頁、1月1(土)〟の欄に賢治は
   国語及エスペラント
   音聲學

と書き、同MEMO欄には
   本年中にセロ一週一頁
   オルガン一週一課

<いずれも『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
と書いている。
 ということは、昭和2年の元日に賢治は
   国語、エスペラント、音声学
を学んだということであろう。そして、この〝MEMO欄〟の記載は1月1日のものだし、その記載内容からして
   本年中にセロ一週一頁 オルガン一週一課
は賢治昭和2年の〝一年の計〟であることがわかる。年頭に当たって昭和2年の賢治はまず「本年中にセロ一週一頁」を第一に掲げていたということになる。そこからは、賢治のチェロに懸ける意気込みが伝わって来るし、チェロの腕前は殆ど初心者であったであろうことも言えそうだ。オルガンは「一週一課」なのにチェロは「一週一頁」だからである。
 また、このことは前に挙げた証言〝☆2〟の(2)及び(3)とも符合する。つまり、この(2)と(3)等の意味するところ、賢治は大正15年の12月下旬に買ったばかりと思われる鈴木バイオリン製のチェロの腕前は全くの素人であったということとも符合する。
 ではこの日記のメモが仮説〝♣〟とどう関わってくるかを次に少し考えてみたい。この日記の書かれ方〝一年の計の第一が「本年中にセロ一週一頁」〟であることからは昭和2年の賢治がチェロに懸ける想いは相当なものであることが容易に理解できる。賢治は昭和2年内に是非ともチェロの腕前を上げたかったのであろう。しかし現実には、チェロを学ぶことは、チェリストでさえも生やさしいことではなかったと述懐している人もいる。したがって賢治は早晩チェロを独習することの限界を覚ったであろうことが推測できる。そこで、
 沢里君、しばらくセロを持って上京してくる、今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。
<『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著、岩手日報連載、昭和31年2月22日付)より>
と言って、昭和2年に上京したということは十分に考えられることである。そういう意味で、この日記も仮説〝♣〟の薄弱ながら傍証になるかな、と私は感じている。

☆6 「レコード交換會」
 関登久也は『宮澤賢治素描』の中の節「レコード交換會」において次のような意味のことを述べている。
 賢治は昭和2年10月21日付のある紹介状を作った。それは高橋慶吾を紹介し、慶吾が事務を執ってレコード交換会を行うというもので、不用なレコードや希望のそれを教えてほしい、というものであった。
と。そしてその節の中には次のような証言もある。
 ところがこの交換会は結局賢治が病床の人となったり、慶吾の都合でよい結果を得なかったようである。
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協栄眞日本社)181pより>
ということは、昭和2年10月21日からそう遠くない時期に賢治は病臥したということが言えることになる。
 よって、この時の病臥は仮説〝♣〟の中の「病気になって花巻に戻った」にちょうど符合する。なぜならば、この帰花(花巻に帰ること)の時期といえば「昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京して…、病気になって花巻に戻った」訳だから、昭和3年の1月頃に病気になって帰花したことになるからである。実際、かつての賢治年譜を見てみれば、
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、…この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身體が衰弱す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年発行)>
のようになっているものが多いことからも、関登久也のこの証言は信憑性が高そうである。
 したがって、関登久也のこの証言は仮説〝♣〟の有力な傍証の一つとなるだろう。

☆7 盛岡気象台の記録
 「通説」では、大正15年12月2日「(賢治は)セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」(『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600p)となっているから、もしこの日花巻駅周辺で霙が降っていなければ、この「通説」の反例になるかも知れないし、仮説〝♣〟の傍証となるかもしれないと思って盛岡気象台にお訊ねした。
 するとその回答は
 大正15年12月2日の花巻の天気は不明だが当日の降雨量は13.6㎜である。
 ちなみに当日の盛岡の天候は 朝夕雪、日中雨で、3日以降は雪が降っている。
ということである。したがって、当日花巻に霙が降ったかどうかは解らぬが、盛岡の気象も踏まえれば花巻で霙が降った可能性も否定できない。
 したがって、この盛岡気象台の気象データは「通説」を否定するものではないし、仮説〝♣〟を傍証するものでもない。もちろん反例となるものでもない。 

ここまででの結論
 以上で予定していたものについての考察は全て終了した。その結果、これまでに検討した証言等は仮説〝♣〟を裏付けるものは幾つかあったが、一方で反例となりうるものは何一つないことがわかった。したがって、この仮説〝♣〟はそこそこ悪くない仮説なのかも知れない。
 なお、今後留意しておくべき証言は以下の項目である。
☆1の(2) 「今度はおれもしんけんだ」と賢治は言った。
 〃 (7) 澤里は羅須地人協会へは幾十回となく訪ねた。
☆2の(4) 賢治はチェロを習おうと思った訳を、詩の朗誦伴奏に「オルガンよりセロの方がよいように思います」と語った。
である。

 続きへ
前へ 
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿