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408 昭和2年の賢治の上京(#8)

☆2 大津三郎の「三日でセロを覺えようとした人」
 2つ目は『昭和文学全集 月報第十四號』に載っている大津三郎の証言であり、それは次のようなものである。
   「三日でセロを覺えようとした人」
 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。…(略)…
 ある日、歸り際に塚本氏に呼びとめられて「三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと言う人が來ているが、どの先生も出來ない相談だと言つて、とりあつてくれない。岩手縣の農學校の先生とかで、とても眞面目そうな年ですがね。無理なことだと言つても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと言うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。」と口説かれた。…(略)…
 塚本氏の熱心さに負けて遂に口説落された私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背廣の年で、塚本氏が「やつと承知して貰いました大津先生です。」と言うと「宮澤と申します。大層無理なことをお願いいたしまして……」と柔和そうな微笑をする。「どうも見當もつかない事ですがね、やつて見ましょう」と微苦笑で答えて、扨、二人の相談で出來上つたレッスンの豫定は毎朝六時半から八時半迄の二時間ずつ計六時間という型破りであつた。…(略)…
 神田あたりに宿をとつていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで來るのは仲々の努力だつたようだが、三日共遅刻せずにやつて來た。八時半に練習を終つて私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる。……これが三日つづいた。
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
 三日目には、それでも三十分早くやめてたつた三日間の師弟ではあつたが、お別れの茶話會をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので……」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
 つまり、大津三郎から受けたチェロの特訓に関しては
(1) 大津三郎が賢治にセロを教えた時期は大正15年の秋か昭和2年の春浅い頃の可能性が高い。
(2) 賢治は楽器の持ち方だけでもよいから教えてほしいという意味のことを言った。
(3) 賢治に教えた内容は楽器の各部の名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイング、音階などである。
(4) 賢治はチェロを習おうと思った訳を、詩の朗誦伴奏に「オルガンよりセロの方がよいように思います」と語った。
ということなどを大津三郎は証言していることになる。
 ではこれらの証言は仮説〝♣〟の反例となり得るか。幸いそのようなものはほぼないと言っていいだろう。この大津三郎のチェロの特訓は昭和2年のものではなくてその前年のもの、すなわち大正15年12月に上京した際のものと考えることができるから、(1)は反例とまではならないであろうからである。そして(2)及び(3)からは、そのときの賢治のチェロの腕前は、全くの素人であることがこの大津の証言から推測できる。
 よって、この段階では仮説〝♣〟は成り立ち得るし、(4)については今後留意しておきたいことである。

☆3 座談会「宮澤賢治先生を語る會」
 3つ目は關登久也著『宮澤賢治素描』の中にある、座談会「宮澤賢治先生を語る會」における次のような証言である。
K 先生のご病気は昭和二年の秋ごろから悪くなつたと思うが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思う。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたという話だつた。
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年)254pより>
なお、ここで〝K〟とは高橋慶吾のことで、〝M〟とは伊藤克己であることが同じく関登久也の著書『賢治随聞』(角川選書、昭和45年)で後ほど明らかにされている。
 したがって、
(1) 賢治の病気は昭和2年の秋頃から悪くなったと思うと高橋慶吾は証言している。
(2) 賢治の病気が悪くなったのは東京へ行ってからだと思うし、その際賢治は東京でエスペラント、セロ、オルガンなどを練習したという話だった、ということを伊藤克己は証言している。
ことになる。そして、同書にはこの座談会は「日時 昭和十年頃」と付記されているから、賢治が没してからあまり経ってい時期の座談会であり、これらの証言はそれほど昔のこととは言えない。また下根子桜時代から数えても10年経っていない時期の複数の人による座談会だから、これらの証言は作り話として処理する訳にはいかないだろう。少なくともある程度の真実は伝えているに違いない。
 ではこれらの証言は仮説〝♣〟の反例となり得るかというと、もちろんそのようなものではない。逆にこれらの証言からは
  賢治は昭和2年の秋頃から、あるいは東京に行ってから病気が重くなった。
という可能性があることが示唆されることから、仮説〝♣〟の傍証になり得るかも知れない。ただし、これが昭和2年の上京のことだけを述べているとなると、「エスペラント、セロ、オルガンなどを練習したという」という伊藤の証言中の〝エスペラント、オルガンの練習〟が気になるところではあるが。

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