下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
412 昭和2年の賢治の上京(#12)
では次は、「現通説」となっている「新校本年譜」の〝大正15年12月2日〟の典拠は「沢里武治氏聞書」であることがはっきりしたので、この証言にあってなおかつ「現通説」からは抜け落ちている、賢治の発言『少なくとも三か月は滞在する』の〝三か月〟に関連して少しく考察してみたい。この際の上京が大正15年12月2日であれば、それから約3ヶ月間の滞京が、通説となっている現年譜にはたして合理的に当てはまるかということを調べてみたい。
『少なくとも三か月は滞在する』
では、「新校本年譜」を基にして〝大正15年12月2日〟前後の賢治の動きを拾ってみよう。
<1926年(大正15年)>
また参考のために、以前掲載した図表〝下根子桜時代の「大正15年10月~昭和2年3月」〟も以下に再掲してみる。
もちろん賢治はその上京の際に『少なくとも三か月は滞在する』と言っただけのことで、実際そのとおり滞京していたとは限らないという指摘もあろうが、典拠となっているこの「沢里武治氏聞書」において、澤里は引き続いて
ここは合理的に考えるならば、澤里の証言する約3ヶ月間の滞京が、通説となっている現年譜にはどう考えても当てはめることができないことは明らか。ゆえに、澤里のこの証言〝Φ〟がもし正しいとするならば、霙の降る日にひとり賢治を見送った日を大正15年12月2日とすることには無理があろう。それとも「新校本年譜」や「旧校本年譜」担当者は、それ以外の部分についての澤里の証言は正しいのだが、この証言〝Φ〟だけは澤里が偽っているとでもいう確証を掴んででもいるのだろうか。もしそうであるならば、それこそそれを我々読者の前に明らかにして欲しい。
いずれ、このような「新校本年譜」や「旧校本年譜」における澤里の証言の使われ方ははたして如何なものであろうか。
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『少なくとも三か月は滞在する』
では、「新校本年譜」を基にして〝大正15年12月2日〟前後の賢治の動きを拾ってみよう。
<1926年(大正15年)>
11月22日 この日付の案内状発送、また伊藤忠一に配布依頼。
11月29日 羅須地人協会講義
12月 1日 定期の集りが開かれたとみられる。
12月 2日 セロを持ち花巻駅より沢里武治ひとりに見送られて上京。
12月 3日 着京し、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に200円の送金を依頼。
12月20日 〃 に重ねて200円を無心。
12月23日 〃 に29日の夜発つことを知らせる。
<1927年(昭和2年)>11月29日 羅須地人協会講義
12月 1日 定期の集りが開かれたとみられる。
12月 2日 セロを持ち花巻駅より沢里武治ひとりに見送られて上京。
12月 3日 着京し、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に200円の送金を依頼。
12月20日 〃 に重ねて200円を無心。
12月23日 〃 に29日の夜発つことを知らせる。
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪。中野新佐久往訪。
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義が行われたと見られる。
1月20日 羅須地人協会講義。土壌学要綱を講じる。
1月30日 〃 「植物生理学要綱」上部。
1月31日 本日付「岩手日報」夕刊に賢治の写真入り『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。
2月17日 本日付「岩手日報」に1/31付記事を受けて「農村文化について」という投書掲載。
2月20日 羅須地人協会講義「肥料学要綱」上部。
2月28日 〃 〃 下部。
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義が行われたと見られる。
1月20日 羅須地人協会講義。土壌学要綱を講じる。
1月30日 〃 「植物生理学要綱」上部。
1月31日 本日付「岩手日報」夕刊に賢治の写真入り『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。
2月17日 本日付「岩手日報」に1/31付記事を受けて「農村文化について」という投書掲載。
2月20日 羅須地人協会講義「肥料学要綱」上部。
2月28日 〃 〃 下部。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
となっている。また参考のために、以前掲載した図表〝下根子桜時代の「大正15年10月~昭和2年3月」〟も以下に再掲してみる。
<『新校本 宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)および『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)より>
これらから判断して、この大正15年12月2日上京の際の滞京期間は12月内の一ヶ月弱であり、どうみても3ヶ月間は滞京できない。ある一定期間、東京にいる賢治と岩手にいる賢治の二人の賢治が存在することになるからである。となれば、明らかに典拠としている「沢里武治氏聞書」の証言は正しく使われていないことになる。誤解を恐れずにいえば澤里武治の証言が「つまみ食い」されて使われている。そしてそのような使い方をした理由も訳も註釈されていない。もちろん賢治はその上京の際に『少なくとも三か月は滞在する』と言っただけのことで、実際そのとおり滞京していたとは限らないという指摘もあろうが、典拠となっているこの「沢里武治氏聞書」において、澤里は引き続いて
そして先生は三か月の間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……Φ
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と証言している。にもかかわらず、その病気に関する記載は「新校本年譜」や「旧校本年譜」には全くなされていないし、註釈もない。何ら言及していないのである。ここは合理的に考えるならば、澤里の証言する約3ヶ月間の滞京が、通説となっている現年譜にはどう考えても当てはめることができないことは明らか。ゆえに、澤里のこの証言〝Φ〟がもし正しいとするならば、霙の降る日にひとり賢治を見送った日を大正15年12月2日とすることには無理があろう。それとも「新校本年譜」や「旧校本年譜」担当者は、それ以外の部分についての澤里の証言は正しいのだが、この証言〝Φ〟だけは澤里が偽っているとでもいう確証を掴んででもいるのだろうか。もしそうであるならば、それこそそれを我々読者の前に明らかにして欲しい。
いずれ、このような「新校本年譜」や「旧校本年譜」における澤里の証言の使われ方ははたして如何なものであろうか。
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