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404 昭和2年の賢治の上京(#4)

澤里、柳原の証言と「通説」
 さて、「沢里武治聞書」における澤里武治の次のような証言
……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
……①
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年2月発行)215p~より>
に対して、一方の柳原のC氏に話した下根子桜時代の賢治の上京に関する次の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけども。……②
もあることになった。
 なお、通説は「校本年譜」大正15年12月2日にあるように
 (大正15年12月2日) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。……③
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600pより>
ということになっている。
澤里、柳原の証言はともに信頼に足る
 さてこれらの矛盾を抱えた①~③の関係はどのように理解すればいいのだろうか。このことに関して私は次のように解釈している。
 そのためにまず確認しておきたいことは以前確信できたこととして述べた
 澤里もそうだし、前述したように柳原もともに信頼に足る人だということを私は確信した。したがって二人とも賢治に関することをわざわざ偽るような人とは思えない。
である。とすれば①も②も共に真実を述べていると考えられる。言い換えれば、まずは②に従えば
 あの日に澤里と柳原は上京する賢治を見送った。
ということになろう。そして柳原が言うところの〝あの日〟とは通説となってしまっている③の日付〝大正15年12月2日〟に他ならない。したがってもっと丁寧に書き換えると
 大正15年12月2日、澤里と柳原は上京する賢治を見送った。……④
ということになるが、これは歴史的事実と考えられる。一方①より
 澤里は昭和2年の11月の霙の降る日ひとり上京する賢治を見送った。……⑤
も同様に歴史的事実となろう。もちろんこう解釈すれば、澤里の証言と柳原の証言の間に何ら矛盾は生じないし、この解釈はかなり素直な解釈でもある。
 ところがこう解釈すると③との間には矛盾が起こる。がしかし、ここで誤解してはならないことは、何も澤里は霙の降る大正15年12月2日に賢治をひとり見送ったと言っている訳ではないことである。また澤里は大正15年12月2日に賢治を見送っていないとも言っていなのである。したがって、ここは柳原の言うとおりであるとして一向に構わないことになる。にもかかわらず、「新校本年譜」は〝理由〟も明示せずに③の日を「大正一五年のことと改めることになっている」と宣言している。だから矛盾の根元はそこにあると私は言わざるを得ないし、是非ともその〝理由〟を明示して欲しかったしこれからでもいいからそうして欲しい。がしかし、その〝理由〟を知る術もない私とすれば、その宣言の妥当性も理解できないがゆえに④と⑤はともに真実のはずであり、
 宮澤賢治は昭和2年の11月に上京した。
と判断せざるを得ないのである。
仮説〝♣〟
 そこで、私は澤里の証言①に従って次のような仮説
宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花巻に戻った。………♣
を定立したい。そして今後その検証を試みたいのである。 

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