宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

410 昭和2年の賢治の上京(#10)

2012年10月27日 | 『賢治昭和二年の上京』
3 「現通説」による検証
 さて、幾つかの証言によって仮説
 宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花巻に戻った。………♣
を検証してきた訳だが、まだそのような証言等は幾つか残っている。がそれは後ほどに回すこととし、ここからは「現通説」によってこの仮説を検証してみたい。
「新校本年譜」大正15年12月2日
 この日の「現通説」は、「新校本年譜」に述べてある次のようなものである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。*65
 また、この注釈*65は以下のようになっている。
*65 関『随聞』二一五頁をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を大正一五年のことと改めることになっている。
<それぞれ『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)325p、326p~より>
 当然この「現通説」に従えば仮説〝♣〟は危うくなる。霙の降る寒い日にチェロを持って上京する賢治をひとり澤里武治が見送った日として大正15年12月2日が既にある上に、同じようなことが昭和2年11月の霙の日にもあったということはまず99%ないであろうからである。真相はそのいずれか一方だけが起こり、他の一方は起こっていなかったということであろう。
 したがって、畏れ多いことではあるがこの「現通説」が間違っているのか、仮説〝♣〟が間違っているのかのいずれであるかを迫ることになる。もちろん私としては、仮説〝♣〟は案外間違っていないのではなかろうかと考えているし、そのためにいままさにその検証等に取り組んでいるところである。そこで、爾後しばらくこのことについて考えていきたい。
註釈*65の意味すること
 さて、よくわからぬのがまずこの註釈の仕方である。念のために「旧校本年譜」を見てみると、その記載内容と「新校本年譜」のそれとは註釈〝*65〟があるかないかの違いだけで他は一言一句違っていない。
 ということは、この註釈は「新校本年譜」編集者X氏が付けた註釈であり、この「大正15年12月2日」の中身については何に基づいて著したかはX氏にははっきりとはわからぬが、おそらく「旧校本年譜」編集者H氏が関登久也著『賢治随聞』を元に要約したものであろうとX氏は推測している、と言いたいのであろう。そして、『この日付については、澤里は「昭和2年11月頃」と証言しているがそれは「大正15年12月2日」と改めることとすること』という添え書きをH氏はそこに付しているゆえ、X氏はそのH氏の指示に従った、と言いたいのであろう。
 だからこそ、「…ものとみられる」とか「…ことと改めることになっている」というもどかしい言い回しをしたのだろうと直感した。そして考えてみれば私には、一般に『…こととすることになっている』という表現は、『理屈はさておき、そうすることになっている』という言語感覚があるがゆえにそう直感したのかもしれないが、一方ではX氏の苦しい立場もわからぬこともないと感じたからなのかもしれない。
 しかしここではっきりしておきたいことがある、それは、もしこの日のことを「新校本年譜」や「旧校本年譜」がこう書いている以上はその典拠は澤里武治の証言以外にないということを。なぜならば、このようなことを澤里ならば言えるし、澤里以外の人物がこの霙の降る日の賢治の上京を目の当たりにしているという証言を誰一人として公にしていないはずだからである。

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