宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

401 昭和2年の賢治の上京(#1)

2012年10月17日 | 『賢治昭和二年の上京』
1章 教え子二人の証言
 その疑問の始まりは筑摩書房の『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』であった。同書は「年譜篇」となっていて宮澤賢治の年譜(以降この年譜のことを「新校本年譜」と略記する)が所収されている。
大正15年12月2日の賢治
 その年譜の大正15年12月2日の箇所を見ていたならばあれっ、と思った。それは次のようになっていた。
 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた*65。
 そして、その註釈があり
*65  関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)325pより>
となっていた。私は、この註釈の書き方に驚きを禁じ得なかった。「…見られる」とか「…ことになっている」などという口跡が筑摩の『新校本宮澤賢治全集』にまさかあるなんて、と。
 同時に以前から、関登久也の著書『賢治随聞』の中の「沢里武治聞書」における澤里の証言と「旧校本年譜」(『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の年譜のことをこのように以下略記する)の同日の記載
 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600pより>
との矛盾が気にかかっていた<*①>。
澤里武治の証言
 なぜならば、「沢里武治聞書」において次のように
   沢里武治聞書  
……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年2月発行)215p~より>
と澤里武治は証言していて、第一に澤里のいうところの日付と「旧校本年譜」の日付とでは約1年も違う。さらには、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という部分に関しては一切の言及がないからである。ある証言の一部は使い、一部は書き換え、そして他の一部は無視するという証言の使い方ははたしていいのだろうか、牽強付会であるという批判を受けはしないのだろうかということを危惧していたのである
 そこへもってきてこの「新校本年譜」の〝大正15年12月2日〟の註釈を知って私はますます訳が分からなくなってしまったのであった。
<*①註> 因みに「旧校本年譜」には〝*65〟に相当する註釈はない。


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