久々に栗駒山に遊ぼうと思って出掛けた。途中平泉を通っているときに見掛けたのが次の
《1 摩崖仏》(平成22年6月19日撮影)
である。この摩崖仏があるところはいわゆる達谷窟(たっこくのいわや)であり、そこには
《2 達谷窟毘沙門堂》(平成22年6月19日撮影)
がある。
ここは以前”エミシの”鬼””で触れた”エミシ・タムラマロ伝説”の中に出て来た悪路王が籠もっていた所でもある伝えられているし、この悪路王とは宮澤賢治が
『原体剣舞連(mental sketch modified)』
の一節に
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
<『校本 宮沢賢治全集 第二巻』(筑摩書房)より>
と登場させている人物でもある。
因みに『達谷窟毘沙門堂/別当達谷西光寺ホームページ』を見てみる”窟毘沙門堂縁起”には
一千二百年の昔、悪路王、赤頭、高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構へ、女子供を掠めるなど暴虐の限りを盡し、国府もこれを制することが出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命ぜられ、蝦夷征伐の詔を下された。對するする悪路王等は達谷窟より三千餘の族徒を率いて駿河国清美關まで進んだが、大将軍が京を發するの報せをを聞くと、武威に恐れをなし窟に引き返し守りを固くした。
延暦廿年(八〇一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨す蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ね、ついにこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模ねて九間四面の精舎を創建し百八躰の毘沙門天を祀り、國を鎮める祈願所とし、窟毘沙門堂(別名窟堂)と名付け桓帝御願の御寺とした。(以下略)
とある。
しかし申し訳ないが私はこの縁起を読んで違和感を持った。はたして実際の悪路王はここに書かれているような暴虐の限りを尽くした蝦夷の長だったのだろうか。おそらく悪路王は侵略者である坂上田村麻呂に対して、自分たちの同胞と土地と財産を守るために勇敢に戦っただけだったのではなかろうか、そう思えたからである。
前掲の賢治のメンタルスケッチには悪路王は首は刻まれ漬けられ と詠まれているが、なにもそこまでされるほどの科も罪も悪路王にはなかったのではなかろうか。なんのことはない、蝦夷(もしかすると日高見国)の長として悪路王は皆から絶大な支持を受けていて尊崇されていたから、日高見国を征服したかった侵略者田村麻呂は斯くの如き見せしめをしただけのことではなかろうかと。
続き
””のTOPへ移る。
前の
””のTOPに戻る
”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
”目次(続き)”へ移動する。
”目次”へ移動する。
《1 摩崖仏》(平成22年6月19日撮影)
である。この摩崖仏があるところはいわゆる達谷窟(たっこくのいわや)であり、そこには
《2 達谷窟毘沙門堂》(平成22年6月19日撮影)
がある。
ここは以前”エミシの”鬼””で触れた”エミシ・タムラマロ伝説”の中に出て来た悪路王が籠もっていた所でもある伝えられているし、この悪路王とは宮澤賢治が
『原体剣舞連(mental sketch modified)』
の一節に
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛おどり
胃袋はいてぎつたぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
<『校本 宮沢賢治全集 第二巻』(筑摩書房)より>
と登場させている人物でもある。
因みに『達谷窟毘沙門堂/別当達谷西光寺ホームページ』を見てみる”窟毘沙門堂縁起”には
一千二百年の昔、悪路王、赤頭、高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構へ、女子供を掠めるなど暴虐の限りを盡し、国府もこれを制することが出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命ぜられ、蝦夷征伐の詔を下された。對するする悪路王等は達谷窟より三千餘の族徒を率いて駿河国清美關まで進んだが、大将軍が京を發するの報せをを聞くと、武威に恐れをなし窟に引き返し守りを固くした。
延暦廿年(八〇一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨す蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ね、ついにこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模ねて九間四面の精舎を創建し百八躰の毘沙門天を祀り、國を鎮める祈願所とし、窟毘沙門堂(別名窟堂)と名付け桓帝御願の御寺とした。(以下略)
とある。
しかし申し訳ないが私はこの縁起を読んで違和感を持った。はたして実際の悪路王はここに書かれているような暴虐の限りを尽くした蝦夷の長だったのだろうか。おそらく悪路王は侵略者である坂上田村麻呂に対して、自分たちの同胞と土地と財産を守るために勇敢に戦っただけだったのではなかろうか、そう思えたからである。
前掲の賢治のメンタルスケッチには悪路王は首は刻まれ漬けられ と詠まれているが、なにもそこまでされるほどの科も罪も悪路王にはなかったのではなかろうか。なんのことはない、蝦夷(もしかすると日高見国)の長として悪路王は皆から絶大な支持を受けていて尊崇されていたから、日高見国を征服したかった侵略者田村麻呂は斯くの如き見せしめをしただけのことではなかろうかと。
続き
””のTOPへ移る。
前の
””のTOPに戻る
”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
”目次(続き)”へ移動する。
”目次”へ移動する。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます