宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

199 戦争協力に関して

2009年10月08日 | Weblog
    <『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)>

 以前、”『土に叫ぶ』出版後の甚次郎”の「生き急いだ松田甚次郎」で
 ところで、松田甚次郎に対しては国策におもねた等の批判があるようだが、そのことについては今後関心を持って調べてみたい。
と述べた。なぜならば『「賢治の精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)には
  「時流にのり、国策におもねた」とか、「戦争協力者となった松田の存在が、人々の脳裡から痛みをともなって消えてゆく」という評価がある。
 とか、
 昭和初期の農村漁村経済更正運動の切り札として塾風教育が登場し、強力な農民錬成が行われた時代、「最上共働村塾」も当然その流れの中にあった。
とあるからである。
 たしかに、松田甚次郎の実践を知ってみると、結果的には甚次郎は戦意高揚に協力した点はあったということは否めない気もする。ではそもそもこの当時、他の人達は戦争協力したのだろうか、しなかったのだろうか、ということが気に掛かっていた。

 そんな矢先、『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)に次のような記事があることを知った。
 『(2) 戦争に協力した文学者・芸術家と日本文学報国会・大日本言論報国会』
 こういう中で有名な文学者・芸術家が戦争に協力するようになりました。一九三三年(昭和八年)四月には浪岡惣一郎作詞「日章旗の下に」を中山晋平が作曲。八月、内閣情報部の中国の漢江攻略戦従軍に関する文芸家との協議に菊池寛吉川英治佐藤春夫らが出席。陸軍二班計二十二名の従軍に決定、佐藤春夫は永井荷風に報告。九月には吉川英治佐藤春夫小島政次郎吉屋信子らが文学者の従軍海軍班として中国に行きました。
 それどころか、「満州事変」から、敗戦までの十五年戦争の間、特に一九三七年の支那事変となり、大政翼賛会がつくられると休息に戦争協力の文学・芸術家の人たちが増えました。
 島崎藤村は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿かれ」という東条英機の戦陣訓の校閲をしました。…(略)…
 山田耕筰は「日支事変」以来、戦時歌謡、軍歌として「杭州小唄」、戦争昂揚の歌「英霊賛歌」…(略)…などを作曲し…(略)…
 北原白秋は一九三八年には「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒がはげしくなり…(略)…
 歌人斎藤茂吉はアララギ派の総帥で、高村光太郎に似て戦争賛美・戦意昂揚短歌、言わば戦争強力の歌を詠み、その中には東条英機賛歌などもあり、戦争協力を恥じたり、反省するというようなことは全くありませんでした。…(略)…

かくの如く、当時の第一線の名立る作家の名がぞろぞろ出てきている。
 彼等の中には己の思想・信念を貫いて虐殺されてしまった小林多喜二や、せめて?沈黙しようとした小林秀雄や谷崎潤一郎などがいるようだが、多くの作家は戦争に協力をせざるを得なかったようだ。   
 ところで少しく調べてみると、その当時の新聞社やラジオ報道など殆どのマスメデイアは戦争遂行のためのプロパガンダとして利用された、あるいは積極的に協力したと言わざるを得ないようだ。
 例えば、『十五年戦争の開幕』(江口圭一、小学館)によれば
 十月二七日付の「守れ満蒙=帝国の生命線」の四ページの前面特集記事である。『東日七十年史』(一九四一年)は、この特集の結果、右のスローガンが「広く喧伝された」と誇っている。
【Fig.1 「守れ満蒙=帝国の生命線」の記事】

からである。
 とりわけ、勇気と責任ある言論によって真実を追求すべきだと日頃自覚していたはずのマスコミでさえもこうしたのだから、一作家だけをあげつらって戦争協力したことを一方的に責めることは私には出来ないような気がする。

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