宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

372 賢治のリヤカーの牽き方

2011年06月28日 | 下根子桜時代
                   《↑ 「この時代の農村風景」》
            <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>

 以前報告したものであるが、このブログの先頭の写真は『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていたものであり、そこには
 賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
と注意書きがあった。

 一方、これとそっくりな次の写真は『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》

        <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>
であり、こちらは賢治ものだと明記してある。

 これら両者を見比べてみると大小の違いはあるものの同一写真であることは明らかである。ましてあの〝バナナン大将〟の平来作が蔵している写真だということであればこの人物が賢治である確度は高いのではなかろうか。
 昭和61年発行の『宮沢賢治の五十二箇月』では賢治と明記してあるのに、平成9年発行の『拡がりゆく賢治宇宙』ではなぜ〝賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない〟とわざわざ注意書きが付け加えられるようになったのであろうか。
 そしてそもそも当時の農道をこんな服装をして花巻に20台もなかった(『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、文春文庫))といわれるリアカーを引っぱっている男なんて賢治の他にいたのだろうか…、と疑問に思っていた。

 そこで、この疑問をある宮澤賢治研究家K氏に投げ掛けてみたところ、次のような証言をK氏はある地元の人から聞いたと私に教えてくれた。それは、
 賢治はリヤカーを牽くとき普通の人のような牽き方はしなかった。普通はハンドルのフレームの中に入って押すのだが、賢治の場合はフレームの中には入らずに外からハンドルを後ろ手で引っぱって牽いていた。
という証言だった。

 この証言を教えてもらって、やはりこの写真は宮澤賢治の写真に違いないとますます確信を深めた。まさしくこの証言どおりのリヤカーの牽き方をしているからである。

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