下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
324 宮澤家別荘のことなど
《1↑『宮澤家別荘』》
<『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著、川嶋印刷)より>
さて下根子桜の別荘だが、その外観はこのブログの先頭の写真のようなものであり、これは西南方向から見たものであろう。
この別荘で始めた賢治の生活だが、この初めの頃に約半年ほど寝食を共にしていたという千葉恭の証言によれば
台所は裏の杉林の中に小さい掘立小屋を立て、レンガで爐をきり自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその辺の雑木林の柴を取って来ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです。私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。
<『四次元七号四次元 7号』(宮沢賢治友の会 May-50)より>
ということである。
一方、下図が宮澤家の建っていた台地
《2 元羅須地人協跡》
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)より>
の概念図であるが、上図の中央右よりにある井戸の、その右上にあるのがこの台所であった。
もう少し詳しく見ると、下図が
《3 宮澤家別荘間取り図》
<『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著、川嶋印刷)より>
ということであるから、この図の左上の図がその台所、兼水浴場ということになろう。
水浴については、『宮沢賢治―地人への道』の中で
林の中に煉瓦で人目にふれない塀をまわし、水槽をつくって、そこから水が流れるようにして、身体を洗う仕掛けをしたり、夏には一斗(18㍑)もある大如露をつくって屋根に上にあげておき、夕方にはかたむけてつるし身体を洗ったりした。風呂に入りに行ったことも少なく、だんだんには井戸ですぐさま行水をして身体をふいた。
と伊藤忠一が語っている。賢治も面白いことをやる、屋根に載せた大如雨露を見てみたかった。
同じく、千葉恭が語るところによれば
この建物の特徴は玄関や座敷から土足のまゝ入れる様にしてあることです。玄關は西側にありましたが、廊下式になってゐてそこには柴を立て廻してゐました。まるで柴の穴に入って行く様に造られてありこれを「山猫」といつておられました。…(略)…二階は三方が硝子戸で先生の書齋になつてゐました。朝早く起きて必ず二階に行き、北上山脈から出る太陽を待つて拜むのが毎日の日課になつてゐました。
と言い、
…(略)…四季ともに共通にれた朝を北上山脈の頂上から、新しい空を破つて静かにのぼる太陽を見た時です。その時は何をやめてもまばたき一つせず、ぢつと見つめ朗々とした聲を張り上げて法華経を讀上るのでした。
<『四次元7号』(宮沢賢治友の会 May-5)より>
とも証言する。
因みに、次が
《4 羅須地人協会跡地から望む北上山脈から出る太陽》(平成22年11月13日撮影)
である。叶うならこの地にやはり羅須地人協会の建物が建っていて、その二階から日の出を拝んでみたいものだ。そうすれば賢治のことを今よりは少し理解できるかも知れない。
下根子桜にかつての羅須地人協会の建物(宮澤家別荘)は復元されないものかな…。
続き
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<『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著、川嶋印刷)より>
さて下根子桜の別荘だが、その外観はこのブログの先頭の写真のようなものであり、これは西南方向から見たものであろう。
この別荘で始めた賢治の生活だが、この初めの頃に約半年ほど寝食を共にしていたという千葉恭の証言によれば
台所は裏の杉林の中に小さい掘立小屋を立て、レンガで爐をきり自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその辺の雑木林の柴を取って来ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです。私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。
<『四次元七号四次元 7号』(宮沢賢治友の会 May-50)より>
ということである。
一方、下図が宮澤家の建っていた台地
《2 元羅須地人協跡》
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)より>
の概念図であるが、上図の中央右よりにある井戸の、その右上にあるのがこの台所であった。
もう少し詳しく見ると、下図が
《3 宮澤家別荘間取り図》
<『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著、川嶋印刷)より>
ということであるから、この図の左上の図がその台所、兼水浴場ということになろう。
水浴については、『宮沢賢治―地人への道』の中で
林の中に煉瓦で人目にふれない塀をまわし、水槽をつくって、そこから水が流れるようにして、身体を洗う仕掛けをしたり、夏には一斗(18㍑)もある大如露をつくって屋根に上にあげておき、夕方にはかたむけてつるし身体を洗ったりした。風呂に入りに行ったことも少なく、だんだんには井戸ですぐさま行水をして身体をふいた。
と伊藤忠一が語っている。賢治も面白いことをやる、屋根に載せた大如雨露を見てみたかった。
同じく、千葉恭が語るところによれば
この建物の特徴は玄関や座敷から土足のまゝ入れる様にしてあることです。玄關は西側にありましたが、廊下式になってゐてそこには柴を立て廻してゐました。まるで柴の穴に入って行く様に造られてありこれを「山猫」といつておられました。…(略)…二階は三方が硝子戸で先生の書齋になつてゐました。朝早く起きて必ず二階に行き、北上山脈から出る太陽を待つて拜むのが毎日の日課になつてゐました。
と言い、
…(略)…四季ともに共通にれた朝を北上山脈の頂上から、新しい空を破つて静かにのぼる太陽を見た時です。その時は何をやめてもまばたき一つせず、ぢつと見つめ朗々とした聲を張り上げて法華経を讀上るのでした。
<『四次元7号』(宮沢賢治友の会 May-5)より>
とも証言する。
因みに、次が
《4 羅須地人協会跡地から望む北上山脈から出る太陽》(平成22年11月13日撮影)
である。叶うならこの地にやはり羅須地人協会の建物が建っていて、その二階から日の出を拝んでみたいものだ。そうすれば賢治のことを今よりは少し理解できるかも知れない。
下根子桜にかつての羅須地人協会の建物(宮澤家別荘)は復元されないものかな…。
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