宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

371 昭和8年9月25日付岩手日報

2011年06月27日 | Weblog
       《1↑『岩手日報』(昭和8年9月25日付)》

 昭和8年9月22日付け岩手日報の紙面の中に次のような報道があった。
1.宮澤賢治永眠
 その紙面には、
《2 「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す」》

      <『岩手日報』(昭和8年9月22日付)>
という記事が載っており、宮澤賢治が昭和8年9月21日になくなったことに関わる新聞報道で
 詩人宮澤賢治氏きのふ永眠す 日本詩壇の輝しい巨星墜つ 葬儀はあす執行
花巻町豊沢町宮澤政治(ママ)郎氏長男宮澤賢治氏はかねて病気中のところ最近小康の状態にあったが廿一日午後一時半病あらたまり遂に永眠したが享年二十八(ママ)、氏は先に盛岡高農を卒業、花巻農學校に職を執られ、また田中智學氏のもとにあって深く佛教をきわめ大正十三年心象スケッチ詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』を發表して日本詩壇に嘗てない特異の存在を示し新しい巨星として全日本詩壇注目のうちに詩作を發表してゐたもので詩、童話その他数十巻の未刊の作品を所蔵され、その非ジャーナリスチックの故に高名であり『春と修羅』の如きは刊行當時發行所の不誠意から夜店で賣られたりしたが現在は所持者は卅圓でも手離さない古典的な名詩集となってゐる、尚葬儀は廿三日午後三時から花巻町安浄寺で執行される
(写真は故宮澤賢治氏)

     <『岩手日報』(昭和8年9月22日付)より>
というものであった。
 この記事を見てまず感じたことが、見出しの中の「日本詩壇の輝しい巨星墜つ」という表現である。この当時宮澤賢治はまだ全国的には広く知られておらず、それほど高く評価されていたということはなかったはずだが、この頃既に少なくとも地元岩手では頗る高く評価されていたということなのだろうか。

2.宮澤賢治生前の評価
 このあたりに関しては、以前にも触れた「座談会 賢治像・賢治作品の評価をたどる」では次のように語り合われている。
入沢 生前の同人誌のあとがきなんか見ると、地方の文壇仲間では結構尊敬されていますね。
西田 だから、賢治のユニークな所を高く評価する人と、その逆の立場を取る人がいたということでしょうね。
入沢 ただその辺は微妙で、『春と修羅』を辻潤らが褒めただけで、もう、地方では神様扱いなんてことがあるかもしれない。
司会 亡くなった時の新聞記事も「日本詩壇の輝かしい巨星墜つ」ですものね。
入沢 あれについては、儀府成一さんや森荘已池さんと新聞記者とのかかわりがあったのかもしれないと考えたことがあります。当時の常識よりは少し誇大に載っているんじゃないかという気がするんですが、どうでしょうか。
杉浦 森さんがある時期「岩手日報」の文芸欄を主宰していますからね、記者ですから。
入沢 彼らの間での評価は、殆ど今の評価と匹敵するくらいなものですね。(笑)

         <『宮澤賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)より>
 おそらくこのような見方が冷静な見方だろうと私も思う。つまり、地元岩手の文壇仲間の中には当時から賢治を高く評価する人が何人かおり、その代表的な人物の一人森荘已池が岩手日報の文芸欄を担当していたことに負う部分が大である報道になっていたのではなかろうか、と(新聞記者の皆様にはまことに申し訳ないのだがつい私も、新聞は一般に大袈裟に報道するきらいがあるのではなかろうかと決め付けてしまう悪い癖がある)。

3.これらの新聞報道からの推理
 ところで聞くところによると、このときの賢治の葬儀には2000人の会葬者があったと新聞報道がなされていたという。しかしこのような多人数があの安浄寺集まれるものかと私は常々疑問に思っている。

 そこでその新聞記事を先ずは確認しようと思った。この葬儀は9月23日に執り行われているから、その報道は翌日の24日になされているだろうと思って目を皿にしてマイクロフィルムの中を探してみたが見つからない。なんと24日付新聞は全面抜け落ちている。ということは2000人の会葬者というのは単なる噂かなと思ったのだが、念のために岩手日報社に問い合わせていると24日は休刊日でしたということであった。それじゃ見つからないわけだ。
 ならばその葬儀の報道は明けて25日にあったであろういうことで、再びマイクロフィムを見返してみたならばあったのがこのブログの先頭のような記事「故宮澤賢河氏葬儀」であり、その内容は以下のとおり。
  故宮澤賢氏葬儀
故宮澤賢氏葬儀は二十三日午後二時花巻町豊澤町自宅出棺同町安浄寺に於て執行されたが生前故人の徳を偲び會葬者二千を数へ盛儀を極めた弔辭は
 盛岡高農上村勝爾氏、岩手縣歯科醫師会長今野英三氏、詩人藤原草郎、母木光、森惣一、梅野健三、花巻秋香會、花巻農學校同窓会代表小田中光三氏
で弔電二十八通に及び同三時葬儀を終はった尚故人の遺言によって法華経一千部を刊行生前の知己に贈る筈である

       <『岩手日報』(昭和8年9月25日付け)より>
 この記事からは次の2つのことが言えると思う。
(1) まずその一つ目は、もちろんこの見出しの〝故宮澤賢河氏葬儀〟の〝河〟は正しくは〝治〟であり、次の本文出だしの〝故宮澤賢冶葬儀〟の〝冶〟も〝治〟であることに関してである。なんと見出しと出だしの2ヶ所に異なる誤字が校正もされずに間違ったままで印刷・報道されていることである。氏名の誤字は特に嫌われることなはずなのにである。
 ということは逆に言えば、校正係は宮澤賢治のことをあまりよく知っていなかったということなのであろう。岩手日報記者の森荘已池は賢治を高く評価していたかもしれないが、おそらく森荘已池以外の殆どの日報記者は賢治がどのような人物なのかはあまり解っていなかったのではなかろうか。因みに、9月22日の記事の中に〝享年二十八〟という十歳もの違いがあることからもそのことは窺える。
 だから、一部の人は賢治は凄いと認識してしていたかもしれないが、賢治の高名が県下に広く知れわたり、高く評価されていたということではなかったのではなかろうか。
 うがった見方をすれば、賢治に関することを森荘已池の力と立場を利用すれば大袈裟に報道することが可能だったのではなかろうか…な~んちゃって。
(2) 二つ目はやはり2000人のことである。たしかに記事の中に〝2000人〟とは書かれているが、見出しさえがチェックされていないくらいだから、記事の中の会葬者2000人は果たして他の誰かによってチェックされたものなのであろうか、ということである。
 実際あの安浄寺に2000人が会葬するのは物理的に無理なはずだし、安浄寺の近所のある方も2000人は集まれませんよと私に証言してくれたことでもあるし…。

 <おまけ> 「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す」の載っている前掲の紙面には〝花川戸〟遊郭の記事もあった。そうか、岩田豊蔵の言っていた遊郭は当時たしかにあったのだ

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