宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

382 『イーハトーヴォ(第一期)』から(その3) 

2011年07月08日 | Weblog
                 《↑『イーハトーヴォ六号』》
 それでは今回は「イーハトーヴォ6号~13号」の中にある松田甚次郎関連の記事を抜き出すとともにその中にたまたま見つかった小笠原露の短歌を報告したい。

【第六号(昭和15年5月21日発行)】
 特になし。
【第七号(昭和15年5月21日発行)】
☆  四月賢治の会
山形 長期第十一回生として入塾した新たなる理想に燃ゆる七名の新入塾生を迎へて、二十一日夜最上共働村塾舎に於て左の順により開催された。
 一、精神歌。二、礼拝読経。三、童話「土神と狐」朗読。四、法話。五、新入塾生挨拶。六、碑詩朗読。七、懇談。


【第八号(昭和15年6月21日発行)】
☆  五月賢治の会
山形 白壁の宮澤賢治先生仏間は明るく静である。正面の大床の間には詩碑の石刷が掲げられ、右には先生の写真左には如意輪観音写真が掲げられた十畳に縁側のついた平屋一間の座敷である。
 五月二十一日は一日中私と塾生一同が、未だ取残された儘であつた仏間の前の昨年はほんとうに多くの皆様をお騒がせ致し御同情や御激励いただいた火災のその焼木を整理しながら、よく先生の色々な教を通して熟慮反省したのであつた。夜は村の同志や賢治の会員の方が三十名程参会せられてプログラムに順じて会を進行し、童話は「註文の多い料理店」をみんなで輪読致し、法話は田宮眞龍氏から世界全体幸福の仏教的な御話しを願ひ、非常に一同感銘深きを覚えたのであつた。終つて十三夜の春の月を賛美し、先生の遠き面影を拝せんと南の高窓を開け、消灯して黙祷し、一同で荒城の月を合唱したのである。(松田甚次郎氏報)


【第九号(昭和15年8月21日発行)】
☆  六月賢治の会
山形 二十一日午前三時起床会員の中三十名は軽装して大高根青年修養道場に五里の山路を徒歩で急いだ。同十一時海抜七〇〇米の羽山の中腹の道場に到着瀧にて禊祓をし皇太神宮前に皇国弥栄を祈念し礼拝してから、遠く霞む最上郡下や北村山郡下を眼下に、賢治六月の会を催されたのである。
一、「精神歌」斉唱。二、「雨ニモマケズ」朗誦。三、「オツベルと象」輪読。五,黙祷。六、道場生との座談会(道場生活の日々、及び断食行について。)
羽山にはまだ沢山の雪があり、冷たい風は谷伝ひに吹いて来る。瀧の音のみ高く響いて何かを教へあさやく様である。午後二時下山、往復十里の路を皆んな元気で夫々家についたのは夜の八時であつた。(松田甚次郎氏報)


【第十号(昭和15年9月21日発行)】
☆  七月賢治の会
山形 二十一日夜七時半より最上共働村塾賢治仏間に於て下記の次第にて開催された。一、精神歌。二、読経。三、礼拝。四、詩朗読。五、レコード演奏並びにウイリアムテルの話。六、「グスコーブドリの伝記」朗読。七、「雨ニモマケズ」朗誦。八、懇談、茶話。(松田甚次郎氏報)

☆  各地ニユース
□新女苑九月号に松田甚次郎氏「米になるまでの一夜」掲載。「星めぐりの歌」や「農民芸術概論」の章句が引用されてある。
□山形賢治の会松田甚次郎氏は羽田書店より「続土に叫ぶ」を十月中に刊行。
□花巻町南城振興共働村塾第四回が九月八・九の両日同に於て開催。講師山形賢治の会、最上共働村塾々長松田甚次郎氏は塾生三名と共に八日昼来花、直ちに賢治碑前にて実地作業の指導をなし、夜は組合楼上にて講演並びに隔意なき質疑応答座談あり、九時より菊池本誌主幹指導の下に賢治歌曲の練習があつた。翌九日は午前四時起床一同北上川にて禊し駈足にてイギリス海岸まで往復、朝食を絶つて組合楼上にて昼間で講義、午後は南城小学校作業耕地サイロにてインシレージ作製の指導あり、菊池主幹と共に午後五時の下り手仙北町駅に下車、盛岡市外中野村字門の吉田藤吉君に出迎へられ、八時より門にて同男女青年団及び民八十名に「希望を持て」と叫び、同夜は吉田氏方に一泊、翌朝平泉に向つた。


【第十一号(昭和15年10月21日発行)】
☆  賢治八回忌
山形 静かな九月二十一日の朝山に登つて祈りを捧げてから、仏間に於て朗誦礼拝、法蓮華経の読経をなし一同精神歌斉唱した。一日中精進会と徹底した勤労によつて緊張し、寄りは七時より会員仏間に会合して静に坐った。香のけむりは室内に漂ひ仏壇には手作りの赤い蕃茄、私が宮澤賢治先生から何時も御馳走になつた蕃茄―。それから今年豊作の葡萄各種が献ぜられ、若い塾生の生けたコスモスの赤、桃、白の花が詩碑石刷の前に盛られたのである。
 やがて読経、碑詩朗読と進められて一同黙祷を捧げ先生の回向を致しました。次に先生の作歌作曲の歌を空の果までも、とどろけとイギリス海岸、牧歌、応援歌を皆んなで歌ひつゞけた一夜であつた。それから私から宮澤先生の亡くなられてからの八年について思ひ出づるまゝに話し、今日の宮澤先生について語つたのである。
 私が初めて先生をお訪ねしたのは、大正十五年十二月であつた。そして最後にお訪ねしたのは昭和三年八月十四日であつた。昭和六年に御手紙と〝春と修羅〟を送られたあつた。それが生前の最後であつて、昭和十三年十一月十四日の先生との御交渉十ヶ年の報告は大きな冷たい詩碑に訪でてあつたことや、其後の宮澤作品刊行の事或は劇上演の事について語るがまゝに内心多くの感激を覚えたのであつた。それから一同精神歌を斉唱し、数知れぬ星に、星めぐりの歌を送つた。…(略)

<投稿者註:松田甚次郎自身の日記に従えば、松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪ねたのは
昭和2年3月8日である。因みに大正15年12月25日は大正天皇が亡くなった日で、この日松田甚次郎自身は旱魃のために飢饉一歩手前に近かった赤石村を訪れていた日である。また、2度目に訪れたのは同8月8日であり、この日が二人が直接会った最後の日である。>

【第十二号(昭和15年11月21日発行)】
☆  各地ニユース
□松田甚次郎著『村塾建設の記』は実業の日本社より二十四日頃刊行される。装填松野一夫氏(一円五十銭)
□朝日映画社では大政翼賛会宣伝部後援指導の下に山形の松田甚次郎氏の共働村塾を中心に同氏の指導する村芝居を文化映画『村の芝居』(三巻)として収める事になり、十一月十六日より撮影開始し、十二月中には完成の予定である。脚本は海老原靖氏、劇中劇には松田氏作『警鐘台が立つ』も納められる。
□山形県最上共働村塾々頭松田甚次郎氏は十一月十八日頃来県県北金田一、福岡、一戸及び母校盛岡高等農林学校に於いて講演、二十日夜盛岡市県公会堂多賀に於ける歓迎賢治の会に臨み二十一日退県の予定。


【第十三号(昭和15年12月21日発行)】
 特になし。


 ところで、今回特に興味を引いたのが『イーハトーヴォ十号』である。その中には次のような歌が載っていた。

  賢治の集ひ 
                 小笠原 露
 師の君をしのび来りてこの一日
 心ゆくまで歌ふ語りぬ

 教え子ら集ひ歌ひ語らへば
 この部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ

 いく度か首をたれて涙ぐみ
 み師には告げぬ悲しき心

 女子のゆくべき道を説きませる
 み師の面影忘られなくに

右は九月一日菊池暁輝氏を迎へての遠野に於ける賢治の集ひの際の感歌である。


 あまり明らかな根拠や証拠もないままに小笠原露(=高瀬露)を悪女扱いしているような気がする賢治周辺の何人かの人々、一方そのことに対して声高に反論もせずに〝遠野の賢治の集い〟に出席し、賢治のことを〝み師〟と尊称してこのような歌を詠む終生クリスチャンであった当の本人の高瀬露。
 私は那辺に真実があったのか少しばかり判ったような気がした。 

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