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《1↑『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)》
『賢治とモリスの環境芸術』の中に「羅須地人協会」に関する伊藤与蔵の次のような証言が載っていた。
先生が別荘に住むようになって間もない頃でした。「この建物に名前をつけたいと思うがどんな名前にしたらいいだろう」とみんなに相談されたことがあります。私などは学問もないものですから「先生が考えられた名前をおつけになられたらいいでしょう」といいました。それでも相談をかけられるものですから、私は「カッパの沢はどうでしょう」と言いました。勿論取り上げては頂けませんでした。その別荘の建っていた近くを私たちがカッパの沢と呼んでいるところでした。いろいろと考えられた末、羅須地人協会という名前が出てきたのではないでしょうか。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)より>
と。
いままで私は「羅須地人協会」とは下根子桜の宮澤家の別荘という「建物」の呼称でもあり、そこに集う会員によって構成されるそこに開設された「組織」でもあるとも思っていた。
ところが〝「羅須地人協会」のゴム印〟で触れたように、このゴム印の使われ方を見て、菊池忠二氏の言うとおり「羅須地人協会」とは『彼自身の農耕生活や農村活動の中心であり、ここを拠点にすべての活動が行われることを意味していたように思われる』と私も思うようになった。つまり「羅須地人協会」とは協会という「組織」というよりは「建物」そのものの呼称であると最近は思うようになって来ている。
そう思うようになっていたところへもってきてこの
《2 伊藤与蔵》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/f7/4a7db9522fd1268ede7d094dbe3a1840.jpg)
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)より>
の証言を知り、
「羅須地人協会」とは組織のことではなく、宮澤家の別荘そのものにつけた呼称である。
と、「羅須地人協会」とは建物のことであるというのが賢治の認識だったと、ますます思うようになってきた。そして「羅須地人協会」とは賢治個人の所有物であり、そこに集った教え子達なども含めた会員の共有の物ではなかったのではなかろうかとも。
それゆえだと思うのだが、当時
・伊藤克己たちは羅須地人協会とは呼ばずに農民藝術學校と呼んでいたり
・小原忠や母木光は下根桜のこの別荘のことを羅須地人協会と呼ばずに「イーハトブの家」と呼んだり
していたのではなかろうか、と。
すなわち賢治が下根子桜に住んでいた頃やその直後は、宮澤家の別荘のことを他人が「羅須地人協会」と軽々しく呼ぶことは憚られたのではなかろうか。もしかすると「羅須地人協会」という名称を気兼ねなく使えたのは賢治一人だけではなかったのではなかろうか、などと思ってしまった。
もちろん〝「羅須地人協会」とは組織のことではなく、宮澤家の別荘そのものにつけた呼称である。〟とすることは、〝昭和2年2月1日の岩手日報の報道〟「農村文化の創造に努む花巻の有志が地人協会を組織し 自然生活に立返る」とは矛盾が生じる。なぜなら、そこには「青年三十余名と共に羅須地人協会を組織し」という表現があるからである。
とはいえ、少なくともこの表現は賢治自身が取材に答えて喋ったこととは思えない。一方の岩手日報の大正15年4月1日の記事の方であれば、賢治自身がインタビューに答えた内容そのものが記載されていることが容易に解るが、2月1日付の記事の場合はそういう体をなしていないからである。
取材した記者がそのように受け止めて書いたのがこの記事だと思えば、とりあえずはこの矛盾を説明できそうな気がする…。
いずれこの
「羅須地人協会」とは組織のことというよりは、どちらかというと宮澤家の別荘そのものにつけた呼称である。
という見方については、今後の継続課題としゆきたい。
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『賢治とモリスの環境芸術』の中に「羅須地人協会」に関する伊藤与蔵の次のような証言が載っていた。
先生が別荘に住むようになって間もない頃でした。「この建物に名前をつけたいと思うがどんな名前にしたらいいだろう」とみんなに相談されたことがあります。私などは学問もないものですから「先生が考えられた名前をおつけになられたらいいでしょう」といいました。それでも相談をかけられるものですから、私は「カッパの沢はどうでしょう」と言いました。勿論取り上げては頂けませんでした。その別荘の建っていた近くを私たちがカッパの沢と呼んでいるところでした。いろいろと考えられた末、羅須地人協会という名前が出てきたのではないでしょうか。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)より>
と。
いままで私は「羅須地人協会」とは下根子桜の宮澤家の別荘という「建物」の呼称でもあり、そこに集う会員によって構成されるそこに開設された「組織」でもあるとも思っていた。
ところが〝「羅須地人協会」のゴム印〟で触れたように、このゴム印の使われ方を見て、菊池忠二氏の言うとおり「羅須地人協会」とは『彼自身の農耕生活や農村活動の中心であり、ここを拠点にすべての活動が行われることを意味していたように思われる』と私も思うようになった。つまり「羅須地人協会」とは協会という「組織」というよりは「建物」そのものの呼称であると最近は思うようになって来ている。
そう思うようになっていたところへもってきてこの
《2 伊藤与蔵》
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<『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)より>
の証言を知り、
「羅須地人協会」とは組織のことではなく、宮澤家の別荘そのものにつけた呼称である。
と、「羅須地人協会」とは建物のことであるというのが賢治の認識だったと、ますます思うようになってきた。そして「羅須地人協会」とは賢治個人の所有物であり、そこに集った教え子達なども含めた会員の共有の物ではなかったのではなかろうかとも。
それゆえだと思うのだが、当時
・伊藤克己たちは羅須地人協会とは呼ばずに農民藝術學校と呼んでいたり
・小原忠や母木光は下根桜のこの別荘のことを羅須地人協会と呼ばずに「イーハトブの家」と呼んだり
していたのではなかろうか、と。
すなわち賢治が下根子桜に住んでいた頃やその直後は、宮澤家の別荘のことを他人が「羅須地人協会」と軽々しく呼ぶことは憚られたのではなかろうか。もしかすると「羅須地人協会」という名称を気兼ねなく使えたのは賢治一人だけではなかったのではなかろうか、などと思ってしまった。
もちろん〝「羅須地人協会」とは組織のことではなく、宮澤家の別荘そのものにつけた呼称である。〟とすることは、〝昭和2年2月1日の岩手日報の報道〟「農村文化の創造に努む花巻の有志が地人協会を組織し 自然生活に立返る」とは矛盾が生じる。なぜなら、そこには「青年三十余名と共に羅須地人協会を組織し」という表現があるからである。
とはいえ、少なくともこの表現は賢治自身が取材に答えて喋ったこととは思えない。一方の岩手日報の大正15年4月1日の記事の方であれば、賢治自身がインタビューに答えた内容そのものが記載されていることが容易に解るが、2月1日付の記事の場合はそういう体をなしていないからである。
取材した記者がそのように受け止めて書いたのがこの記事だと思えば、とりあえずはこの矛盾を説明できそうな気がする…。
いずれこの
「羅須地人協会」とは組織のことというよりは、どちらかというと宮澤家の別荘そのものにつけた呼称である。
という見方については、今後の継続課題としゆきたい。
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