宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

336 楽団解散

2011年05月23日 | Weblog
                    《↑参考1 1月10以降の講義予定表》
              <『宮沢賢治の世界展』(原子朗総監修、朝日新聞社)より>

 前回、賢治はこの新聞報道によって音楽練習会のメンバーに迷惑がかかることを恐れてこの集まりを解散したと最後に述べたが、今回そのことについて少し考えてみたい。

1.下根子桜昭和2年1月~3月の年譜
 まずは、前回示した昭和2年の最初の頃の年譜に、3月末頃までの年譜の主なものを付け加えて確認する。『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)等の年譜によればだいたい以下のようであろう。
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵、中野新佐久来訪。
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義。農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
《参考2 土壌要務一覧》

《参考3 〃 の1頁目》

     <『宮沢賢治の世界展』(原子朗総監修、朝日新聞社)より>
 この上の資料は1月20日に使われたものだという(「羅須地人協會」の名称が現実に使われていた物を初めて見ることが出来た)。

 そしてこの日の講義模様に関して伊藤忠一は次のように語っている。
 土壌要務一覧は、昭和二年一月二十日地人協會集會の日「土壌學要綱」なる標題のもとに講義なされたもので、講義については色彩のついたいろいろの大きな圖解を用意して、板に張り替へ張り替へ熱のこもった眞劍なもので斂、これに據つた受講者たちは、其の熱、其の懸命さにガリガリ講義には皆以下程驚異の精神を傾けた事かか、在りし日を憶ふだに感激に咽ぶものがあります。。
 『今日は土壌学です。働く都度必要とする土壌の概念をはつきり知つて居ると居ないとでは農業を経営するのにどんな大きな相違を来すかも知れません。極めて短時間に申し上げるのですから、限定された土壌学で、岩手縣中部地域を標準とする點に置いてわれわれの土壌学でもあります』と云はれ…

     <「地人協會の思出(三)」(伊藤忠一著、『イーハトーヴォ八号』)より>

1月30日    〃     植物生理学要綱 上
2月 1日 2/1付け岩手日報夕刊に『農村文化の創造に努む』という記事掲載
2月10日 羅須地人協会講義 植物生理学要綱 下
2月18日 岩手日報記事に2/1付けの記事を受けて「農村文化について」という投書あり。
2月20日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 上
2月28日    〃       〃         下
3月 4日 湯口村の高橋末治ら6人、地人協会へ入会。
3月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概論」
春頃   労農党稗貫支部事務所として宮沢右八の長屋を借り受けてやる。
春頃(3月頃?) 花巻警察署刑事の事情聴取を受ける。


2.昭和2年2月1日の新聞報道とその対応
 次に、昭和2年2月1日の記事をここでもう一度確認したい。
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)

          <昭和2年2月1日付 岩手日報より>
 従ってこの記事からは、
 (a) 賢治は同志三十余名と羅須地人協会を組織、農民の復興運動を起こすことが主眼。
 (b) 収穫期には各自収穫物を持ち寄る物々交換を行いたい。
 (c) 農民劇農民音楽を創設して家族団欒の生活を続けて行きたい。
 (d) 協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月慰安デーを計画。
ということなどが読みとれる。

 一方、『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』によれば、
 (この記事)は充分に好意的な記事であったが、文中の表現(《青年三十余名と共に羅須地人協会を組織し》など)が治安当局の目にとまり、また、前年十二月一日に発足した労農党稗貫支部に賢治が内々に協力したこともあって、花巻警察の取調べを受けるという事態になり、協会の集会活動は以後極めて表立たない形に変わる。
     <『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』(天沢退二郎編、新潮社)より>
ということである。
 同様のことが『年表作家読本宮沢賢治』では
(この記事が出る。)このため社会主義教育を行っているのではないかとの疑いを持たれ、花巻警察署の事情聴取もあったという。この後オーケストラを一時解散し、集会も不定期になったという。
     <『年表作家読本宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
とある。

 ということなどから、この2月1日付の新聞報道を受けて賢治はその対応をかなり焦ったであろうことが窺われる。この記事を見て「羅須地人協会」の活動が社会主義教育の実践であると疑われているのだと賢治は受け止め、もしこの思想問題のことで他の協会員にもその疑いが及んだのでは相済まないと思った賢治は即刻、いままでの活動を中止することにしたということなのだろう…か。

3.伊藤克己の証言
 そのあたりを協会員の伊藤克己の証言から検証してみよう。
 伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」で」次のようなことを証言している。
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙にく謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、…(略)…
《参考4 羅須地人協会教材の例》

     <『宮沢賢治の世界展』(原子朗総監修、朝日新聞社)より>

 私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。…(略)…
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
 セロは一時花陽館と云ふ映畫館に身賣りした。私達は無料券を貰つて映畫を觀に行つたものである。今にして思えばほんたうにすまない譯である。

      <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)より>

 伊藤克己がここで語っているこれらのことが正しければ、この証言と前の年譜から次の事柄
 (1) 下根子桜の別荘で開催された農民講座は短い期間であった。
 (2) 下根子桜の別荘で賢治は農民藝術や農民詩などの講義をした。
 (3) 会員は羅須地人協会とは呼ばず農民藝術學校と称していた。
 (4) 2月1日付岩手日報の記事が元となって即座に楽団を解散した。
 (5) 新会員の入会は3月当初時点でもあった。
 (6) 3月までは講義が行われていた。
が担保されるであろう。

4.賢治の「善後策」
 したがって、
 (ア) やはり、この新聞報道を受けて賢治はオーケストラ(楽団)を即解散したということは事実であったのであろうことが確認できる。
 (イ) 一方、講義は即止めたわけではなくそれ以降も実施している(なお念のため、その後の年譜を調べてみると4月以降このような講義が行われた形跡はない)。また、一寸不思議だがその後も会員の加入はあったということも判る。

 このときの賢治の対応のポイントは、
 賢治が即中止したのは「羅須地人協会」の活動の全てではなくてそのうちの楽団活動であった。
ということである。
 当時、この新聞報道で賢治が一番敏感に反応すべきは、思想問題で疑われているということに対してだった(と私は思う)。ならば、この記事の中で特にどの部分を賢治は懼れたたのであろうか。
 それはやはり(a)であろう。『青年三十余名と共に羅須地人協会を組織し』という表現で「羅須地人協会」のことが公に知れ渡ってしまうことになったから、ことさら思想問題にうるさい当時のこと、治安当局から目を付けられてしまうと正直賢治は狼狽えたのだと思う。

 そこで賢治は「羅須地人協会」の活動を慌てて止めてしまうことを決意したのだろう。では、止めたということが外部からはっきりと見えるようにするためにどうにすればいいのだろうかと賢治は考えた。このときの「羅須地人協会」の活動としての報道内容は(b)~(d)だから、(b)については何ら問題はなかろうから、賢治は(c)~(d)を止めればいいと判断した。つまり賢治は、楽団を解散すれば「羅須地人協会」の活動は全て取り止めたということを判らせることができるだろうと考えたのではなかろうか。

 そこで早速その晩賢治は伊藤克己等協会員を招集し、
 『新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まない』
と謝罪し、即楽団を解散することにしたと宣言したのではなかろうか。

 またこの当時の社会情勢を考えれば、稗貫郡の隣の紫波郡は旱魃被害のために惨状の極みにあって、一年で一番楽しみのはずの旧正月を控えたにもかかわらず多くの村は破産状態に近かったし、併せてこの月は大正天皇崩御に伴って国民は喪に服していた頃でもあるはず。
 そのような社会状況下、
『目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画』
と報道されたのでは、さすがの賢治も気が引けたのかもしれない。

 ただし講義の方は中止しなかった。
 以下は私の素人考えだが、
 賢治は会員に、
『今後羅須地人協会とは呼ばずに農民藝術学校と呼ぶ』
ことにしようと呼びかけた。そうすれば、(伊藤克己が言うところの)「農民講座」は継続できると判断したし、少なくともこの講座だけは賢治は全うしたかった。
 また一方では、「農民講座」の講義にはさすがの治安当局も難癖は付けられないだろうと賢治は判断した。

のではなかろうか。
 なぜならば、仮説
 この「農民講座」の講義内容はあの官制の「岩手国民高等学校」でかつて講義した「農民芸術」の講義内容とほぼ違わなかった。
が立てられそうだからである。
 御上のお墨付き講座と同じ内容ならばさすがに治安当局も文句は付けられまい、そう賢治は判断したのではなかろうか。

 次回はこのこと検証してみたい。

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