宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

196 陸軍軍馬補充部六原支部

2009年09月27日 | Weblog
 ところで、そもそも陸軍軍馬補充部六原支部とは一体どのようなものだったのだろうか。

 六原農業大学校の図書館で見せてもらった『旧陸軍軍馬補充部六原支部官舎調査報告書』(岩手県金ヶ崎町文化財調査報告書第29集、金ヶ崎教育委員会)によれば次のようなものであったという。
  1 桑島重三郎氏軍馬育成事業に奔走
 明治の中期、胆沢郡相去村の有力者、桑島重三郎は、何とかしてこの寒村相去村に産業を興し住民の生活向上をはかりたいと念願していたが、明治二十二年、初代村長に選ばれてからは一段とこの気持ちを深め、村の振興をはかることに腐心した。
 そして、村の振興をはかるには自然のままに荒れ果てた広大な原野を活用した馬産地、とくに軍馬の育成地とすることこそ、その途であると考えた。
 明治二十七年村長の職を退き、軍馬育成事業を志して日夜奔走し、日清戦争後の明治二十九年陸軍省軍馬補充部本部長大蔵平三氏に面談する機会を得た。
 桑島重三郎氏の熱意と構想に賛同した大蔵本部長は軍馬補充部の支部設置に努力することを約し、その後二年余を経た明治三十一年軍馬補充部の支部設置は決定した。 
  2 軍馬補充部六原支部設置さる
 明治三十一年十一月二日、「陸軍省通達一〇五号」をもって胆沢郡相去村六原字前穴持に軍馬補充部六原支部が設置された。そして十一月十日騎兵中尉岡深雪、陸軍技手福留幸、同小宮山次郎、桑島忠作等が命を受けて同月十四日着任し、桑島重三郎氏廷内に於いて事務を開始した。
  ・・・(中略)・・・

《1 陸軍軍馬補充部六原支部》

   <『旧陸軍軍馬補充部六原支部官舎調査報告書』より>
 支部の広大なる原野には、五〇〇余頭の若駒が放牧され、その頭数も年と共に増加し、最盛期には一、〇〇〇頭近くの軍馬が山野を駆馳し嘶いていた。厩舎は、本部厩舎、西根厩舎、二ツ森厩舎が設置されまた、種山高原を中心とする四、七〇〇ヘクタールの種山出張所として夏季放牧に使用され、六原と種山を結ぶ一帯は活気に満ちあふれたのである
《2 西根分厩創立紀念碑》

   <『旧陸軍軍馬補充部六原支部官舎調査報告書』より>
 そして明治三十七年、日露戦争には支部から多くの軍馬が荒野に送られ戦いに傷ついたが、これによって六原支部の位置は不動のものとなり、六原の繁栄は約束されたように思われた。
  ・・・(中略)・・・
  4 「二日町」誕生す
 自然のままに荒れていた茅野は切り拓かれて、支部の庁舎や厩舎がつぎつぎと建築される一方、洋風の職員官舎が建てられ電灯線が架設された。それまでは電灯のなかった土地であるから、建ちならんだ庁舎や官舎に夜おそくまで電灯が輝いた夜景は、その明るさとともに人々の心にも太陽が昇ったようだったという表現もうなずける。
 支部の職員は増加し、庁舎や職員官舎の建築のための労務者は定着し、六原郵便受所が設置(明治三十三年八月一日)される等によって生活必需品や、軍馬の資料等を供給する商人は、支部を中心として集まり、支部の正門前の一画は面の町街を形成するに至った。
 この街は、六原支部が設置になった十一月二日にちなんで「二日町」と名づけられ、一寒村の名も知られなかった六原に出現した二日町に通ずる道は、人馬の列が絶えない程のにぎわいとなった。
  5 軍馬補充部六原支部廃止さる
 日露戦争の大勝により軍馬補充部六原支部の地位も確立したと思われてから二十年の年月は瞬く間にすぎ去り、軍備縮小の時代となった。大正十四年軍馬補充部六原支部は廃止されるという噂はとんだ。しかし、これを喰い止め、これを存続させようとするものは誰もなく、大正十四年十月をもって六原支部は廃止された。

のだという。
 六原付近一帯はかつての伊達藩と南部藩の藩境に近く、広大な六原の原野(夏油川が形成した扇状地だという)は伊達藩の鷹狩場だったといわれている。それ故、”自然のままに荒れ果てた広大な原野”という表現があるのであろう。
 それが、桑島重三郎氏の尽力により六原の荒野が一気に賑やかで活気のある一帯となったのだから、桑島氏が
  これまでは訪う人もなき六原に都にまがう馬車をみんとは
という狂歌を残しているのも宜なるかなと思う。

 また、1924年4月29日に賢治は花巻農学校の生徒を引率して軍馬補充部六原支部方面への遠足を行ったという話もある。

 ところで、この報告書を見て嬉しくなったことは2つある。一つ目は、六原支部に種山出張所があったことである。具体的には明治32(1899)年~大正14(1925)年の約4半世紀の間、種山の放牧場は六原支部の出張所であったようだ。
 因みに、その出張所は藤沢放牧地、上野放牧地、高坪放牧地、大文字放牧地、姥石放牧地、菜種沢放牧地、小牧沢放牧地、鷹巣放牧地の各放牧地から成り立っていたようである。
《3 種山出張所付近の地図》

    <『昭和十年版岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
 それこそ、賢治の詩「種山ヶ原」は1925,7,19に詠まれている。したがって、それは六原支部(種山出張所含む)が廃止される直前に詠まれたということになる。

 とすれば、宮澤賢治の「種山ヶ原」(定稿)は
     種山ヶ原
   まっ青に朝日が融けて
   この山上の野原には
   濃艶な紫いろの
   アイリスの花がいちめん
   靴はもう露でぐしゃぐしゃ
   図板のけいも青く流れる
   ところがどうもわたくしは
   みちをちがへてゐるらしい
   ここには谷がある筈なのに
   こんなうつくしい広っぱが
   ぎらぎら光って出てきてゐる
   山鳥のプロペラアが
   三べんもつゞけて立った
   さっきの霧のかかった尾根は
   たしかに地図のこの尾根だ
   溶け残ったパラフヰンの霧が
   底によどんでゐた、谷は、
   たしかに地図のこの谷なのに
   こゝでは尾根が消えてゐる
   どこからか葡萄のかほりがながれてくる
   あゝ栗の花
   向ふの青い草地のはてに
   月光いろに盛りあがる
   幾百本の年経た栗の梢から
   風にとかされきれいなかげらうになって
   いくすじもいくすじも
   こゝらを東へ通ってゐるのだ

   <『校本 宮沢賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
というものであり、「春と修羅 詩稿補遺」の中の
    〔高原の空線もなだらに暗く〕
   高原の空線もなだらに暗く
   乳房のかたちの種山は
   濁った水いろのそらにうかんで
   みちもなかばに暮れてしまった
     ……ひるは真鍮のラッパを吹いて
       あつまる馬に食塩をやり
       いまは溶けかかったいちはつの花をもって
       ひとは峠を下って行った……
   その古ぼけた薄明穹のいたゞきを
   すばやく何か白いひかりが擦過する
   そこに巨きな魚形の雲が
   そらの夕陽のなごりから
   尻尾を赤く彩られ
   しづかに東へ航行する
   ふたたびそらがかがやいて
   雲の魚の嘴は
   一すじ白い折線を
   原の突起にぎらぎら投げる
   音もごろごろ聞えてくれば
   はやくも次の赤い縞
   いままた赤くひらめいて
   浅黄ににごったうつろの奥に
   二列の尖った巻層雲や
   うごくともない水素の川を
   わくわくするほど幻怪に見せ
   つぶやくやうなそのこだま
   凸こつとして苔生えた
   あの 玢岩の 残丘
   そのいたゞきはいくたびふるひ
   海よりもさびしく暮れる
   はるかな草のなだらには
   ひるの馬群がいつともしらず
   いくつか円い輪をつくり
   からだを密に寄り合ひながら
   このフラッシュをあびてるだらう
   そこに四疋の二才駒
   あの高清の命の綱も
   首を垂れたり尾をふったり
   やっぱりじっと立ってゐる
   蛾はほのじろく艸をとび
   あちこちこわれた鉄索のやぐらや
   谷いっぱいの青いけむり
   この県道のたそがれに
   あゝ心象の高清は
   しづかな磁製の感じにかはる

   <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
は、前の「種山ヶ原」の関連作品ということだから、これらに詠まれている”馬”とは軍馬補充部六原支部種山出張所に夏季放牧されていた馬どちのことであろう。それにしても、軍馬補充部六原支部の広さは約3,000ヘクタールだったらしいから、種山出張所の4,700ヘクタールはそれよりも広かったことになる。それは山手線内の広さには及ばないが、その一回り小さいくらいの広さになるのではなかろうか。

 そして、嬉しかったことの二つ目は、以前”『六原』について”で六原青年道場の面影を残すものはなかったと述べたが、それ以前の軍馬補充部関係のものであればいまも残っているということを知ったことだ。

 というのは、『旧陸軍軍馬補充部六原支部官舎調査報告書』はそこの洋風の職員官舎について調査したものであり、その報告書には次のような3棟の官舎の写真が載っていて
《4 洋風の職員官舎》

《5 〃 》

《6 〃 》

   <いずれも『旧陸軍軍馬補充部六原支部官舎調査報告書』より>
はいまも残っているということを知ったからだ。

 そこで訪ねてみたのが以下の各官舎である。それぞれが、順に次の官舎にそれぞれ対応するようだ。
《7 洋風の職員官舎》(平成21年6月12日撮影)

《8 〃 》(平成21年6月12日撮影)

《9 〃 》(平成21年6月12日撮影)

いずれもたしかに瀟洒な洋風の建物である。

 そして、軍馬育成事業に奔走した桑島重三郎(しげさぶろう)記念館が近くにあるというので訪ねてみた。
《10 桑島重三郎記念館》(平成21年6月12日撮影)

ただし、玄関は閉じられていて入館は出来なかった。なぜならば、後で調べてみたならば開館は
   毎週 日曜日、開館時間午前10時~午後4時
とうことだったからだ。いずれ訪れてみたいと思っている。

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