宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

197 桑島重三郎記念館と種山牧場

2009年09月29日 | Weblog
 前回訪れた桑島重三郎記念館ではあるが、残念ながらそのときは閉館していた。それ故その後気になってしょうがないので、開館しているという日曜日に再度訪れてみた。

 この記念館は金ヶ崎町六原下小路23-1という、県道288号線沿いの道路脇にある。その一帯は俗称”上の町(うえのまち)”と呼ばれており、記念館は上の町公民館の隣にあるのでこの公民館を目指すのもよいと思う。
 その入り口には掲示板が建ててあり、 
《1 記念館建設由来記》(平成21年6月22日撮影)

 明治二十九年三陸地方の大津波、翌三十年<注>には大凶作に遭遇し、就中六原方面を中心に西部一帯は大凶荒を来したのであった。たまたま凶作に悩み苦しむ農民を救済するには、現金収入を計ることが何よりの地域経済を潤す唯一の道であると予見し、広大な六原野の開発に着眼して、軍馬預託の奨励に始まり、更に進んで軍馬補充部支部誘置を計り地域労働力の高度賃金化を目論見、その実現に、将に東奔西走、為に私財の殆どを投じた。
 軍馬補充部六原支部設置に成功し、六原地域は申しに及ばず近隣町村一帯にかけ、労銀職場となり農家経済と生活の向上をもたらすことが出来たのであった。
 この偉大なる人物故「桑島重三郎翁」の功績を讃え、之を記念するため多くの遺品を保存陳列し永く後世に残し伝えようと、翁縁りの地六原小学校跡地に記念館を建立す。
 因みに広大なる六原野(三、000ヘクタール)は現在県立六原営農大学校、青年の家、県内牛生産牧場、県有模範林、そして模範農村部(六、一二〇戸)等々多くの施設が開発され、六原地域の文化の一翼を誓って発展しつつある。

と案内している。 
  <注>:三十一年では?三十年は豊作だったのではなかろうか。 

《2 記念館全景》(平成21年6月22日撮影)

《3 確かに今度は開館していた。》(平成21年6月22日撮影)


 展示物の撮影が可能だということだったので幾つかを紹介する。
《4 六原支部仮事務所初代職員》(平成21年6月22日撮影)

実際は明治31年11月、桑島重三郎宅に設けられたという。
 その後明治32年8月に本事務所が出来たのでそこへ移転。
《5 本事務所落成移転記念》(平成21年6月22日撮影)

《6 本部事務所全景》(平成21年6月22日撮影)

《7 正門桜並木(植樹当時)》(平成21年6月22日撮影)

《8 大正初期職員及び傭い人》(平成21年6月22日撮影)

《9 御料馬購入下検分》(平成21年6月22日撮影)

等の写真や軍馬補充部六原支部の本部事務所で実際使われた
《10 換気口》(平成21年6月22日撮影)

そして、そこで使われていた
《11 血色素計器》(平成21年6月22日撮影)

等の計器や用具の展示もある。

 また、軍馬補充部六原支部の
《1 種山出張所の地図》(平成21年6月22日撮影)

の展示もあった。具体的には、種山の東側部分は上の方の地図で、上(北)から下へ順に藤沢放牧地、上野放牧地、高坪放牧地の名が記してある。また、下の方の大きめの地図は種山の東南部分で、大文字放牧地(右上)、姥石放牧地(左上)、以下は上(北)から下へ順に菜種沢放牧地、小牧沢放牧地、鷹巣放牧地の名が記してある。
 ちょっとこの写真では判りにくいので、昭和10年版の岩手県地図から当該部分を抜き出すと次のようなものである。
《3 種山出張所付近地図》

    <『昭和十年版岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
 前掲の各牧場、藤沢放牧地、上野放牧地、高坪放牧地、大文字放牧地、姥石放牧地、菜種沢放牧地、小牧沢放牧地、鷹巣放牧地の配置が判ると思う。
 さすがに4,700ヘクタールもある種山出張所はどでかいことがこれで判る。これほど広かったならば確かに次のようなことも起こったことであろう。
   牧歌 「種山ヶ原の夜」の歌(三)
  種山ヶ原の、雲の中で刈った草は、
  どごさが置いだが、忘れだ 雨ぁふる、

  種山ヶ原の、せ高の芒あざみ、
  刈ってで置ぎわすれで雨ぁふる 雨ぁふる
 
  種山ヶ原の 霧の中で刈った草さ
  わすれ草も入ったが、忘れだ 雨ぁふる
 
  種山ヶ原の置ぎわすれの草のたばは
  どごがの長嶺で ぬれでる ぬれでる
 
  種山ヶ原の 長嶺さ置いだ草は
  雲に持ってがれで 無ぐなる 無ぐなる
 
  種山ヶ原の 長嶺の上の雲を
  ぼっかげで見れば 無ぐなる 無ぐなる

 <劇『種山ヶ原の夜』挿入歌/『校本 宮沢賢治全集 第十一巻』(筑摩書房)より>


 ところで、明治32(1899)年~大正14(1925)年の約4半世紀の間種山の放牧場は六原支部の出張所であったいうが、賢治はそのころ種山にはしばしば行っており、上の牧歌の他にも沢山の作品もつくっているようだ。
 具体的には、『森からの手紙』(伊藤 光弥著、洋々社)によれば例えば次のような種山行きがあるという。
(1) 賢治盛岡高等農林3年生の大正6(1917)年の8~9月にかけての約10日間種山ヶ原などの地質調査。
 歌稿「大正六年七月より」に以下江刺地質調査中という注釈付きで、上伊手剣舞連四首、種山ヶ原七首、原体剣舞二首を詠む。9月2日種山に登山か?

 因みに、『宮澤賢治全集 一』(筑摩書房)においては和歌「大正六年七月より」に”種山ヶ原”というタイトルで次のような九首(前の「種山ヶ原七首」に当たる)が載っている。
     種山ヶ原
   白雲のはせ来るときは
   この原の
   草穂ひとしく莖たわむなれ

   オーパルの
   雲につつまれ
   秋草とわれとはぬるる
   種山ヶ原

   白雲は露とむすびて
   立ちわぶる
   手帳のけいも青くながれぬ

   白雲にすがれて立てる鬼あざみより
   種山ヶ原に
   かなしみは湧く

   うづまける白雲のべに
   ひともとのおにあざみかも
   すがれ立てり

   目のあたり
   黒雲立つとまがひしは
   黒扮岩の露頭なりけり

   白雲の種山ヶ原に燃ゆる火の
   けむりにゆらぐ
   さびしき草穂

   みちのくの
   種山ヶ原に燃ゆる火の
   なかばは雲にとざされにけり

   ここはまた
   草穂なみだち
   しらくものよどみかかれるすこしのなだら

 また、同じく伊藤氏によれば次のような種山行きもあるという。
(2) 大正14(1925)年7月種山調査行(地質図や測量手伝い)。
 これに関しては前回”陸軍軍馬補充部六原支部”で触れたように、賢治の詩「種山ヶ原」は1925,7,19に詠まれていているようだが、この詩の発展形である次の詩
 「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」(春と修羅 第2集補遺)
   測量班の人たちから
   ふたゝびひとりぼくははなれて
   このうつくしい Wind Gap
   緑の高地を帰りながら
   あちこち濃艶な紫の群落
   日に匂ふかきつばたの花彙を
   何十となく訪ねて来た
   尖ったトランシットだの
   だんだらのポールをもって
   古期北上と紀元を競ひ
   白堊紀からの日を貯へる
   準平原の一部から
   路線や圃地を截りとったり
   岩を析いたりしたあげく
   二枚の地図をこしらえあげる
   これは張りわたす青天の下に
   まがふ方ない原罪である
   あしたはふるふモートルと
   にぶくかゞやく巨きな犁が
   これらのまこと丈高く
   靱ふ花軸の幾百や
   青い蝋とも絹とも見える
   この一一の花蓋と蕋を
   反転される黒土の
   無数の条に埋めてしまふ
   それはさびしい腐植にかはり
   やがては粗剛なもろこしや
   オートの穂をもつくるだらうが
   じつにぼくはこの冽らかな南の風といっしょに
   あらゆるやるせない撫や触や
   はてない愛惜を花群に投げる

   <『校本 宮沢賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
からそのことが解ると伊藤光弥氏は言う。
 また、同じく1925,7,19に詠まれた
  「種山ヶ原」(下書稿(一))
     パート三
   この高原の残丘
   こここそその種山の尖端だ
   炭酸や雨あらゆる試薬に溶け残り
   苔から白く装はれた
   アルペン農の夏のウヰーゼのいちばん終りの露岩である
   わたくしはこの巨大な地殻の冷え堅まった動脉に
   槌を加へて検べやう
   おゝ角閃石斜長石 暗い石基と斑晶と
   まさしく閃緑玢岩である
   じつにわたくしはこの高地の
   頑強に浸食に抵抗したその形跡から
   古い地質図の古生界に疑をもってゐた
   そしてこの前江刺の方から登ったときは
   雲が深くて草穂は高く
   牧路は風の通った痕と
   あるかないかにもつれてゐて
   あの傾斜儀の青い磁針は
   幾度もぐらぐら方位を変へた
   今日こそはこのよく拭はれた朝ぞらの下
   その玢岩の大きな突起の上に立ち
   なだらかな準平原や河谷に澱む暗い霧
   北はけはしいあの死火山の浅葱まで
   天に接する陸の波
   イーハトヴ県を展望する
   いま姥石の放牧地が
   緑青いろの雲の影から生れ出る
   そこにおゝ幾百の褐や白
   馬があつまりうごいてゐる
   かげらふにきらきらゆれてうごいてゐる
   食塩をやらうと集めたところにちがひない
   しっぽをふったり胸をぶるっとひきつらせたり
   それであんなにひかるのだ
   起伏をはしる緑のどてのうつくしさ
   ヴァンダイク褐にふちどられ
   あちこちくっきりまがるのは
   この高原が
   十数枚のトランプの青いカードだからだ
      ……蜂がぶんぶん飛びめぐる……
   海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
   しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
   あゝ何もかももうみんな透明だ
   雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
   風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
   じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
   それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
      ……蜂はどいつもみんな小さなオルガンだ……

  <『校本 宮沢賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
という詩も詠んでいるが、この詩の中の
   いま姥石の放牧地が
   緑青いろの雲の影から生れ出る
   そこにおゝ幾百の褐や白
   馬があつまりうごいてゐる
   かげらふにきらきらゆれてうごいてゐる
   食塩をやらうと集めたところにちがひない
   しっぽをふったり胸をぶるっとひきつらせたり
   それであんなにひかるのだ

の部分は、種山出張所が間もなく廃止されるであろうことを知る由はなかったであろう賢治が、物見山の頂上から軍馬補充部種山出張所の一つの放牧地”姥石放牧地”に放たれている”幾百”もの軍馬の群を眺めながら詠んでいるのであろうということが推測できる。

 話は戻って、六原支部の
《2 田代出張所》(平成21年6月22日撮影)

という地図の展示もあった。
 明治31(1898)年には六原支部が創設され、翌明治32(1899)年には種山出張所が設けられたことは知っていたが、同時に門馬(かどま/現川井村)村田代にも出張所が設けられたのだそうだ。
 その他には
《3 こんな地形図》(平成21年6月22日撮影)

もあった。「三十人街」などが描かれているから南部藩との境界付近の伊達藩概念図なのだろう。伊達藩の鷹狩場はこの図の中どこにあったのだろうか。

 記念館の年譜によれば、桑島重三郎は桑島周助の息子だったという。その周助は南部御境古人・六原肝入だったそうで
《4 陣羽織》(平成21年6月22日撮影)

の展示もあった。
 代々南部御境古人だった故に桑島家にはこのような概念図(地形図)があったのだろうし、重三郎はこの図を見たりしていたので、かつて伊達藩の鷹狩場でその当時は荒れ果てていた広大な六原の原野を有効活用しようと思っていたのかも知れない。
 また同じような理由で所有してたであろう
《5 南部領伊達領境塚全図》(平成21年6月22日撮影)

の展示もあり、
《6 鬼柳から》(平成21年6月22日撮影)

《7 駒ヶ岳まで》(平成21年6月22日撮影)

の境塚が図示されている。この写真の左上の山が駒ヶ岳であり、その頂上にお社の絵が書かれている。もちろんこの駒ヶ岳は夏油三山の駒ヶ岳である。このとおり駒ヶ岳は仙台藩と盛岡藩の境界にあり、20年ごとに両藩が費用を出しあってこのお社を改修していたということである。
 なお、記念館の前庭には明治38年建立の
《8 馬之碑》(平成21年6月22日撮影)

があり、面白いと思ったのは
《9 この部分》(平成21年6月22日撮影)


    青毛
    鹿毛
    栗毛  馬之碑
    芒毛
    斑毛 
と刻してあることである。

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