宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

194 『六原道場』について

2009年09月24日 | Weblog
 宮澤賢治の作品『耕耘部の時計』の中の”三、午后零時五十分”に次のように
 午の食事が済んでから、みんなは農夫室の火を囲んでしばらくやすんで居ました。炭火はチラチラ青い焔を出し、窓ガラスからはうるんだ白い雲が、額もかっと痛いやうなまっ青なそらをあてなく流れて行くのが見えました。
「お前、郷里はどこだ。」農夫長は石炭凾にこしかけて両手を火にあぶりながら今朝来た赤シャツにたづねました。
「福島です。」
「前はどこに居たね。」
「六原に居りました。」
「どうして向ふをやめたんだい。」
「一ペん郷国へ帰りましてね、あすこも陰気でいやだから今度はこっちへ来たんです。」
「さうかい。六原に居たんぢゃ馬は使へるだらうな。」
「使へます。」
「いつまでこっちに居る積りだい。」
「ずっと居ますよ。」
「さうか。」農夫長はだまってしまひました。
     ・・・(以下略)・・・

  <『校本 宮沢賢治全集 第九巻』(筑摩書房)より>
『六原』が登場する。

 この『六原』について少し触れてみたい。
 現在の岩手県胆沢郡金ヶ崎町(当時は胆沢郡相去村)六原と云うところに明治31年に創立された『陸軍省軍馬補充部六原支部』という組織がかつてあった。『六原』とはこの六原のことである。言い換えれば、『耕耘部の時計』で赤シャツの言っている「六原に居りました」の意味は「軍馬補充部六原支部に勤務しておりました」ということになる。
 この軍馬補充部六原支部だが、第一次世界大戦後の世界は軍備縮小が進み、その流れを受けて大正14年10月をもって六原支部は廃止された。
 そして、その軍馬補充部六原支部跡に昭和7年9月6日『六原道場』が施設されたのだという。この道場の正式名称は
    『岩手県立六原青年道場』
で、この道場は
  日本人たる自覚と、これに徹せんことを祈願して、雄々しく発足したわが国修練道場の先駆者
なのだそうだ。そして、かく書いてあるのが次の著書
【『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)】

である。
 この本の中に、六原道場において賢治はどのように扱われたかを示唆する記事があるのではなかろうかと思って探り始めた。・・・のだが、それよりはまず実際に六原道場跡地を見てみるべきだという思いに至ったのでそこを訪ねてみた。

 これが
《1 かつての『六原青年道場』正門》(平成21年6月12日撮影) 

   <『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)より>
だが、現在そこは
《2 『岩手県立農業大学校』正門》(平成21年6月12日撮影) 

となっている。そこから真っ直ぐ進むと
《3 桜並木》(平成21年6月12日撮影) 

が続く。これが開花時なら次の如し。
《4 六原農場の桜花》(平成19年4月28日撮影) 

さらにそのまま進んで行くと
《5 『岩手県立農業大学校』入口》(平成21年6月12日撮影) 

に達する。
《6 大学校構内》(平成19年4月28日撮影) 

《7 現在の構内配置》(平成21年6月12日撮影) 

これと
《8 六原青年道場当時の配置》(平成21年6月12日撮影) 

  <『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)より>
を比べてみると、配置は似ているが、当時の面影を残す建物などはないようで、唯一見つかったのは
《9 講堂武道場跡》(平成21年6月12日撮影) 

の石標だけ。
 なお、次が
《10 六原青年道場当時の要図》(平成21年6月12日撮影) 

  <『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)より>
であり、千貫石溜池も含まれている。そして、夏油三山の駒ヶ岳の広大な裾野も含んでいることが判る。
 実際、構内から眺めたみた
《11 駒ヶ岳》(平成21年6月12日撮影) 

である。 
 そして、その奥に頭を見せているのが経塚山である。宮澤賢治は詩『軍馬補充部主事』の中にこの経塚山を次のように登場させている。
   うらうらと降ってくる陽だ
   うこんざくらも大きくなって
   まさに老幹とも云ひつべし
   花がときどき眠ったりさめたりするやうなのは
   自分の馬の風のためか
   あるひはうすい雲かげや、
   かげらうなぞのためだらう
   よう調教に加はって
   震天がもう走って居るな
   膝がまだ癒り切るまい
   列から出すといゝんだが
   いやこゝまで来るとせいせいする
   ひばりがないて
   はたけが青くかすんで居る
   その向ふには経塚岳だ
   山かならずしも青岱ならず
   残雪あながちに白からずだ
      (以下略)

   <『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
はたして賢治は、六原の軍馬補充部のどの辺りからこのとき経塚山を望んだのだろうか。 

 さて、『六原道場』(伊藤金次郎著、協同公社出版部)に、六原青年道場設立の目的は
 本道場は県下青年男女を訓育して専ら信念と実力との啓培に努め、依って祖先伝来の日本精神を体現し、入りては地方風教の作興及び地方産業の進展に盡し、出でゞは新領土及び海外への発展を図り、以て本県の振興と皇国の興隆とに貢献する地方中堅人物人物を養成するを目的とす。
と記されている。
 そして同著には、道場の組織関しては
 この道場精神を具現せんとする組織としては、
 一、訓練部 一、模範農村部 一、林業試験部
の三部門を置いてをる。職員は、
 道場長、道場副長(一) 訓練部々長、教士、技師、助教士、技師講師(教士以下はそれぞれ若干名) (二)模範農村部々長、技師、技手、技手補、主事補(技師以下はそれぞれ若干名) (三)林業試験部々長、技師、技手補、主事補(技師以下はそれぞれ若干名) 
という陣立てだ。

 さらに、道場の日課については
一、起床午前五時
一、参拝及び国旗奉計掲―午前五時半
一、日本体操及び武道(午前五時四十五分より一時間、雄たけび及び駆け足を行う)
一、朝食―午前七時
一、学科(又は実習)―自午前八時 至正午
一、昼食―正午
一、実習―自午後一時至日没
一、国旗奉降式
一、夕食―午後六時半
一、自習―自夕食至午後八時半
一、修道夜会―午後八時半
一、遙拝―午後九時
一、就寝

とそれぞれ記している。
 ここで気になるのがまず「雄たけび」というところである。同著は別のところで
 体育は、男子部にあっては「雄たけび」や駆け足を行うことに定められている
とも説明している。このことに関しては後ほどまた触れてみたい。
 次は「日本体操」も気になる。同じく同著には
 日本体操といふのは、石黒英彦の恩師、筧克彦博士の創案にかかわるもので、一名皇国運動(やまとばたらき)からとり入れた『青年の部』のものだ。
と記している。
 とすると、次の写真のようなものが「日本体操」なのだろうか。
《12 鍛錬する六原青年》

   <『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)より>
 なお次の写真は、
《13 錬成を終わって清明川に憩ふ》

   <『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)より>
様である。この清明川とは清明湖(千貫石溜池のこと)から流れてくる川であり、一日の勤務を終わった際、土くれなどで汚れた身体をこの清明川と呼ばれるせせらぎで洗ったという。

 さて、この道場の修練の一切を終えると次のような
《14 修練証》

を授与され、業を終えた修練生達が道場を去る際は、あの桜並木の右側に並んだ道場長以下の職員が見送る中、「建国の歌」や「植民の歌」を合唱しながら巣立っていたのだという。
《15 「建国の歌」合唱裡に巣立ち行く》

   <『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)より>

 続きの
 ”『雄叫び』について”のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る。
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿