宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

195 『雄叫び』について

2009年09月25日 | Weblog
 前回「雄叫び」について少し触れたが、そのやり方や中身が知りたくて農業大学校内にある図書館を訪ねてみた。
 閲覧できた資料からはそのことズバリを知ることが出来なかったが、小冊子『雄叫び』を見せてもらうことが出来た。
 次がその
《1 小冊子『雄叫び』の表紙》

である。岩手県立青年学校教員養成所編となっている。
《2 〃 奥付》

で昭和18年7月15日の発行であることが判る(ただし、この冊子そのものは復刻版)。また、発行所は岩手県立青年学校教員養成所報国団となっている。
 この岩手県立青年学校教員養成所は1926年4月に再開された岩手県立実業補習学校教員養成所が1935年に改称され、1936(昭和11)年4月1日に岩手県立六原道場に併設されて開所したものだという。
 となれば、岩手県立青年学校教員養成所は六原道場(1932(昭和7)年施設)からの影響は少なからずあっただろうから、「雄たけび」とこの小冊子『雄叫び』には通底するものがあると推理できそうだ。
《3 〃 目次》

中には、修練生達が道場を去る際に道場長以下の職員が見送る中皆で合唱したという「建国の歌」や「植民の歌」も載っているが、なんと宮沢賢治の詩が
《4 農民精神歌と牧歌》

《5 原体剣舞連》

として入っている。
 【参照】
    原体剣舞
     (mental sketch modified)

      dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   こんや異装のげん月のした
   鶏の黒尾を頭巾にかざり
   片刃の太刀をひらめかす
   原体村の舞手たちよ
   鴇いろのはるの樹液を
   アルペン農の辛酸に投げ
   生しののめの草いろの火を
   高原の風とひかりにさゝげ
   菩提樹皮と縄とをまとふ
   気圏の戦士わが朋たちよ
   青らみわたる気をふかみ
   楢と椈とのうれひをあつめ
   蛇紋山地に篝をかかげ
   ひのきの髪をうちゆすり
   まるめろの匂のそらに
   あたらしい星雲を燃せ
      dah-dah-sko-dah-dah
   肌膚を腐植と土にけづらせ
   筋骨はつめたい炭酸に粗び
   月月に日光と風とを焦慮し
   敬虔に年を累ねた師父たちよ
   こんや銀河と森とのまつり
   准平原の天末線に
   さらにも強く鼓を鳴らし
   うす月の雲をどよませ
     Ho! Ho! Ho!
        むかし達谷の悪路王
        まつくらくらの二里の洞
        わたるは夢と黒夜神
        首は刻まれ漬けられ
   アンドロメダもかゞりにゆすれ
        青い仮面このこけおどし
        太刀を浴びてはいつぷかぷ
        夜風の底の蜘蛛おどり
        胃袋はいてぎつたぎた
     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   さらにただしく刃を合はせ
   霹靂の青火をくだし
   四方の夜の鬼神をまねき
   樹液もふるふこの夜さひとよ
   赤ひたたれを地にひるがへし
   雹雲と風とをまつれ
     dah-dah-dah-dahh
   夜風とどろきひのきはみだれ
   月は射そそぐ銀の矢並
   打つも果てるも火花のいのち
   太刀の軋りの消えぬひま
     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   太刀は稲妻萓穂のさやぎ
   獅子の星座に散る火の雨の
   消えてあとない天のがはら
   打つも果てるもひとつのいのち
     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

   <『校本 宮沢賢治全集 第二巻』(筑摩書房)より>

 以上の事柄からだけでは、六原青年道場で賢治の詩が歌われていたかどうか不明だが、その可能性は否定できない。
 
 結局、「雄たけび」そのものについてはいまひとつイメージできなかったので、今後継続して調べてゆきたい。 

 ところで、同図書館では次のような綴りも見せてもらった。
《6 満州事変戦死者 遺墨集 岩手県立六原青年道場》

である。
 中には、手紙や葉書が綴られていた。
《7 昭和8年3月19日消印》

《8 昭和7年1月19日消印》


 そもそも、『六原道場』(伊藤金次郎著、協同公社出版部)によれば、六原青年道場設立の目的は
 本道場は県下青年男女を訓育して専ら信念と実力との啓培に努め、依って祖先伝来の日本精神を体現し、入りては地方風教の作興及び地方産業の進展に盡し、出でゞは新領土及び海外への発展を図り、以て本県の振興と皇国の興隆とに貢献する地方中堅人物人物を養成するを目的とす。
ということだったが、この目的の中の
 新領土及び海外への発展を図り
に沿ってということだろうか、この道場で業を終えた後満蒙に行った者は少なくなかったようだ。

 そのあたりについて、『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)には
 昭和7年9月6日に施設された六原青年道場へは、各郡から推薦された優良青年56名が早速第1回訓練生として入場し、同日第1回入場式が行われた。
 同年9月10日、拓務省は満蒙武装移民候補者(『満蒙開拓生』)訓練を六原道場へ委嘱してきた。彼等は秋田、青森、岩手の在郷軍人から銓衡された者126名であった。
 昭和7年9月27日、第1回短期訓練を終了し、青年の一部は県営岩崎開墾地に移住し、他はことごとく郷閭の振興を念として帰郷した。在郷軍人よりなる武装移民は同様同日訓練を終え、越えて10月3日満州に骨を埋める覚悟を持って松花江流域「チャムス」に移住し、目下我が生命線守護のため満蒙開発の第一線に起ちて奮闘しつつある。
 惜しむべきは、昭和8年3月20日、作業中に匪賊の襲撃に遭い、佐藤宗助、菅原玉吉、加瀬谷功の3名が奮戦に努めたが衆寡敵せず、ついに皇国の弥栄を祈りつつ敵弾に殪る。

というようなことが書かれている。
 また、同著によれば、
昭和11年度から再び『満蒙開拓生』が入場し、それぞれ人数は
  昭和11年度 76名
  昭和12年度 23名
  昭和13年度 125名
  昭和14年度 90名
  昭和15年度 38名
  昭和16年度 36名
ということでもある。  
 その後についての事情は不明だが、少なくとも昭和7年度~16年度の間で計514名もの『満蒙開拓生』が六原道場から巣立っていることになる。

 一方、満州事変は1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件に端を発し、関東軍による満州全土の占領を経て、1933(昭和8)年5月31日の塘沽協定成立に至ると考えれば、この遺墨集は『第1回満蒙開拓生126名』の内で満州事変において戦死した人たちのものなのであろう。

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