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3137 「賢治年譜」の昭和3年8月

2013-03-11 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
 さて、賢治が昭和3年8月に下根子桜から実家に戻った際のことについて、「賢治年譜」はどのように著しているのだろうか。
「宮澤賢治年譜」の昭和3年8月
 主立った「宮澤賢治年譜」の昭和3年8月の記述を以下に列挙してみる。
(1) 昭和17年発行 (宮澤清六編)
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
          <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行
△八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
          <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行 (宮澤清六編)
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母のもとに病臥す。
          <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行 (宮澤清六編)
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、帰宅して父母のもとに病臥す。
          <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行 (小倉豊文編)
八月、稲作不良を氣遣ひ、風雨中を徹宵東奔西走し、肋膜炎に罹り、父母の許に病臥。
          <『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
(6) 昭和32年発行
八月、肋膜炎になり、父母の許に病臥した。
          <『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日再版発行)所収「年譜」より>
(7) 昭和41年発行 (堀尾青史編)
八月 東京での無理、帰郷後気候不順による稲作の心配、風雨の中を徹宵東奔西走して酷使した肉体。ついに風邪をひき、発熱、肋膜炎をおこし、豊沢町の実家へかえって病臥の身となる。
          <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和45年発行 (宮澤清六編)
七月・八月、肥料設計を繼續、稲作の不良を心配し、風雨の中を奔走して肋膜炎にかかり、父母のもとに歸り病臥、文語詩を書き始める。
          <『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(9) 昭和52年発行 (堀尾青史編)
八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに、「八月 疾ム」とあり。沢里武治あての手紙に八月一〇日から丁度四〇日間熱と汗に苦しんだとあるのでこの日からと推定する。
          <『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成3年発行 (天沢退二郎編)
 七~八月、稲熱病や旱魃の対策に奔走、八月発熱病臥。
          <『新編銀河鉄道の夜巻』(新潮社、平成3年5月15日発行)所収「年譜」より>
(11) 平成13年発行
八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに「八月 疾ム」とあり。高橋武治あての手紙に八月一〇日から丁度四〇日間熱と汗に苦しんだとあるのでこの日からと推定する。
          <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より)>
見えてくるもの
 これらのリストを概観していると見えてくるものは以下のようなものであろうか。
(a) 本格的な「宮澤賢治年譜」の初出かと思われる宮澤清六編の(1)である
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
を基本的に踏襲していると思われるものが殆どである。つまり
・病気の原因は気候不順による稲作を心配して風雨の中を徹宵東奔西走したがため。
となっているものはそれ自身も含めて
  (1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(7)、(8)
の計7つもある。
(b) 残り4つの内の3つ
  (6)、(9)、(11)
は筑摩書房のものであり、筑摩書房の場合は皆
・病気の原因が〝風雨の中を徹宵東奔西走したがため〟というような書き方はしておらず、なおかつその原因も明記していない。
ものばかりである。
(c) そして残りの1つ、
  (10)
は天沢退二郎編のものであり、病気になった原因はやはり顕わには書いておらず、
・〝稲熱病や旱魃の対策に奔走〟したことがその原因であることを匂わせているだけ。

という3つのタイプに分けられそうだということである。
疑問
 さてそこで生じてくるのが、はたして賢治は実家に戻る前まで本当に〝風雨の中を徹宵東奔西走した〟のかどうかという疑問である。なぜならば、筑摩書房の場合と宮澤清六編の場合とでは明らかなそして大きな違いがあるからである。実際私の知る限りでは昭和3年の夏は冷夏でもないし、多雨だったわけでもなくて、それどころか相当長期間雨も降らず天気もよかったはずだからである。
 したがって、その夏に賢治が〝風雨の中を東奔西走した〟というような気象の夏ではなかったはずである。もしその夏に賢治が〝奔走した〟というのであれば、昭和3年の場合に相応しいのはどちらかと言えば、天沢氏の〝稲熱病や旱魃の対策に奔走〟の方ではなかろうか。
 このことを次回少し考えてみたい。

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