宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

364 下根子桜時代の評価(身近な人)

2011年06月20日 | 下根子桜時代
                   《↑『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)》

 前回述べたように、私が知りたいのは下根子桜に集った人々から見た「下根子桜時代」に対する冷静な評価、あるいはその周辺に住んでいた人々の目から「下根子桜時代」が実はどう見えたかという評価の方である。遠くの都会から花巻を眺めたそれではなくて地元の人々が肌でどう感じたかという評価の方である。

1.身近な人の「下根子桜時代」の賢治に対する評価
 そこで、実証的に宮澤賢治を研究している菊池忠二氏がどう著しているかを調べてみよう。
 菊池氏の著書『私の賢治散歩下巻』の中の「詩碑附近」には、伊藤忠一が下根子桜時代の賢治に関して語ったこととして次のようなことが書かれている。
 「とにかく今考えても狂信者みたいな生活であんした。ああいう生活はとても誰だりのまねできるものではながんす。」ということだった。その口調には、私もびっくりするほど激しいものがあった。
 「あれから三〇年もたって、賢治さんの思想をその時のことを思い出したり、また本を読んだして考えてみても、なかなかよくわからないもんでがんす。」

と。
 そして、この証言に続いて菊池忠二氏は伊藤忠一から聞いた事柄等を同著に次のようにまとめている。
 …伊藤さんから、私がいろいろ聞いた思い出話は、これまでの伝記類に記されている事柄もあり、そうでないことなどもあった。その中から興味をひかれた点を断片的にまとめてみれば、次のようなことであった。
1.羅須地人協会としての集まりは三回くらいで、その時集まった人たちは、三〇人から四〇人くらいだった。講習会のようなものは五、六回開いたと思う。
2.ある時「どうしてお嫁さんをもらわながんすか」と聞いたら、「私は妻をもらって一家和合して暮らすだけの時間も暇もない」という返事だった。
3.賢治さんは「小作料五割というのは高過ぎる。地主は小作米をただとるだけでなく、小作農民に農業技術も与えてやらねばならない。」
4.私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃の化学肥料は高くて、わたしどもにはとても手が出なかった。
5.協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんの「構想」だけは全く大したもんだと思う。あの時代に今の農業改良普及所や、農業協同組合のやっているようなことを考えたんですから、たしかに賢治さんの構想はすばらしいものだと思う。
6.その頃の賢治さんの勉強については、とにかくすごいものだった。興味がのれば夜中過ぎまでも本を読んでいたようだった。
7.資本論とか唯物史観とかいう、難しい社会主義の本も読んでいたようだ。あとで読み古した本を三冊もらったが、それは波多野精一の「宗教哲学」や「心理学」の本だった。
 これらの回想の中で、私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
 「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
 「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。伊藤克己さんはこう語ったこともある。
 「なにしろ宮澤先生は、あの当時で高等専門の学校を出ておられたし、私らは小学校きりなもんだから、先生の所にあつまってもさっぱり話が合わないもんでした。始めの頃はこの辺のの青年たちが、一五、六人も集まったものでしたが、そんなわけでだんだん減って五、六人になってしまったのです。そこで先生は、音楽ならば皆の共通なものだからやりましょうと言って始めたものでした。」
 
       <『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)より>
まさしく伊藤忠一たちのこれらの証言は、身近な人から見た「下根子桜時代」の総体に対する評価とほぼ言っていいのではなかろうか。
 しょっちゅう下根子桜の賢治の許に集っていたはずの伊藤忠一、高橋慶吾、伊藤克己等が口を揃えて「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした」というような証言に対して、菊池忠二氏が『意外に思った』と言うとおり、この証言からは私も今まで思い描いていたものとは真逆の賢治像が浮かんでくる。
 一方、特に伊藤忠一が『羅須地人協会としての集まりは三回くらい』という証言に関してはもっと追求せねばならぬと感じた。伊藤は隣人だから下根子桜時代の賢治のことは詳らかに知っていると思うのでこの三回とはまさしく三回と捉えていいと思うからである。羅須地人協会としての集まりはたった3回くらいしか開かれなかったのだ、???となる。

2.身近な人から見た評価の妥当性
 伊藤忠一は下根子桜の宮澤家別荘の隣に住んでいた「協会員」だから、「下根子桜時代」の賢治のことはよく知っていたはず。その伊藤が30年後に振り返って語っていることならば、当時の事柄はかなり客観的・冷静に評価できていると考えることができると思う。そしてその伊藤が
 『協会で実際にやったことはそれほどのことでもなかったが、あの時代に今の農業改良普及所や農業協同組合のやっているようなことを考えたんですから賢治さんの「構想」だけは全く大したもんだと思う』
と証言しているわけで、これが周りから見た「下根桜時代」の総体に対する評価として妥当なものではなかろうかと私には思える。

 少しく補足すれば、
(1) 伊藤忠一の〝実際にやったことはそれほどのことでもなかった〟という評価と賢治自身の〝殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもの〟という評価とは符合していると思うから、この評価は妥当なものであろう。
(2) 同じく〝「構想」だけは全く大したもんだと思う〟という評価もその通りだと思う。戦前は農業改良普及所は存在していなかったのに賢治はその役割と同じことを先取りして実践したいたからである、と賢治の先見性を評価していることになろう。
(3) さらに伊藤の言うところの〝私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃の化学肥料は高くて、わたしどもにはとても手が出なかった〟というあたりが多くの農家(自小作農家や小作農家)にとっての賢治の〝肥料設計〟に対する評価として妥当なところではなかろうか。この当時、東北の農村は疲弊の極みにありとても金肥を購入する経済的な余裕などは多くの農家にはなかったはずだからである。一般には「菩薩行」として捉えられていると思う〝肥料設計・肥料相談〟だが、実はそれほどの実効性はなかったということになろうか。
(4) そして注目すべきは、伊藤は賢治の「菩薩行」としての稲作巡回指導や肥料相談に対して顕わには感謝はしていないことである。つまりこれらに対して積極的には評価していないということである。なおこれは阿部繁が証言していることとも符合していると思う。

 以上の項目が、伊藤忠一のみならず地元の農民から見た「下根子桜時代」の賢治の営為に対する主な評価であったとしていいのではなかろうか。つまり、「下根子桜時代」の総体に対する身近な人たちの妥当な評価であるとみなしてもいいのではなかろうかと思うのである。

3.これからの課題
 さて、長らくここまで宮澤賢治の「下根子桜時代」に関わってうろちょろ彷徨ってみたが、それ以前に認識していた「下根子桜時代」と現時点でのそれはかなり違ってしまった。とはいえ、「下根子桜時代」に関しては私としてはある程度輪郭が定まってきたともいえる。
 それに引き換え、「羅須地人協会」に関してはますますぼやけてしまった。知れば知るほど「羅須地人協会」に関しては曖昧なことが多すぎるということを知らされたからである。勝手に「羅須地人協会」が独り歩きしてしまい、誤解を恐れないで言えば「羅須地人協会」が跋扈しているとさえ思えてしまう。

 だから私は、「羅須地人協会」のことはもっともっと実証していく必要があると今さらながら思う。たとえば、前掲の伊藤忠一の証言
 羅須地人協会としての集まりは三回くらいで、その時集まった人たちは、三〇人から四〇人くらいだった。講習会のようなものは五、六回開いたと思う。
などはまさしくそのことをあたかも〝教唆〟しているとさえ言えそうだからである。特に〝「羅須地人協会」はたった三回くらい〟だったということはである。このようなことが今後の私の課題の一つである。

 また、「下根子桜時代」に対する評価においては「千葉恭」の視点は絶対欠かせないと思う。なぜならば、千葉恭は賢治と下根子桜でかなりの期間に亘って寝食を共にしていたのだから、賢治のいいところも悪いところも目の当たりにしていたはずだからである。一緒に暮らしてみてこそ初めて互いにそれぞれの本性がはっきりと見えてくるのだから、千葉恭の証言していることは大きな意味合いを持つと思う。
 とはいえ、千葉恭自身は賢治に関して語っているが、賢治が千葉恭に関して語っていることはいまのところ知られていないと思うし、千葉恭を知っているはずの周りの協会員等が千葉のことに関して言及した資料は私の管見ゆえか、一切知られていないようだ。
 したがって、千葉恭から見た賢治の評価に関して私はもう少し時間を掛けて考察してみたい。それが私の課題のもう一つである。

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 拙ブログにおいて、〝下根子桜の自炊独居?生活〟からスタートした「下根子桜時代」に関する投稿は今回の〝下根子桜時代の評価(身近な人)〟でひとまず終えたいが、ここに至って今さらながら思うことは  
 〝真実の賢治〟を知りたい、特に「下根子桜時代」のそれを知りたい。
ということである。そしてますますそう思わされている。
  
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