下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
275 「気違い賢治」と寒行
《1↑『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)》
花巻に住んでいると宮澤賢治のかつての風評が聞こえてくる。すっかり聖人・君子化されてしまった賢治だが、当時の地元の認識は一般にはそういうものではなかったいうことが漏れ聞こえてくる。ただしそれを堂々と公言する雰囲気に今の花巻はないとも思う。
ところが、大胆にもそのようなことを言っている人がいた。山折哲雄氏である。
1.山折哲雄氏の発言
山折氏は自書『17歳からの死生観』の出だしにおいて大胆にも「気違い賢治」というタイトルで次のようなことを書いている。
「気違い賢治」
…(略)…
あるとき、母親から、賢治の若いころの生活ぶりについて、いろいろなことを語ってもらったことがあります。そのとき、ものすごく意外な話を聞かされました。そして、驚いたのです。それは、宮澤賢治に関する伝記とか、研究書には、あまり出てこないようなエピソードでした。…(略)…
その宮澤賢治が、どうしたわけか日蓮宗の世界に入りました。法華経の世界に関心を持ち、日蓮の行者になろうと決意したのです。不思議ですね。科学者の可能性があり、作家になる可能性もあった豊かな才能の持ち主が同時に、宗教家にもなろうともしました。そして、どういうことをしたか。花巻農学校の先生になって、昼は、学校で子どもたちに教えていたのですが、冬になると、「寒行」という修行をしていました。
日蓮宗ですから「南無妙法蓮華経」ですね。知っていますか。真冬の夕方、花巻の街に出て、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」と唱えながら修行をしていました。…(略)…
このときの宮澤賢治のいでたちが、変わった風体でした。絣の着物を着て、その上に黒いマントを羽織った。いいですか、卵の黄身がガチガチに凍ってしまうほど寒い冬の花巻の街を、夕方、黒いマントを羽織った男が一人、、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」と唱えながら歩いていたのです。
町の人は、驚いた。異人がやってきた。気の違った人間がやってきた。得体の知れないことをやっておる。みんな、そばに近づくことをやめたと思います。離れて遠くから、その賢治の姿に向かって、何と言ったか。「気違い賢治」。そして、冷笑、罵声を浴びせていました。
私は、母親から、この話を聞いたとき、ショックでした。その話を、いまだに忘れることができない。…(略)
<『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)より>
多少調べてみると、山折氏は1943年(昭和18年、12歳?)母の実家のある花巻に疎開し、そこで中学と高校時代を過ごし、1954年(昭和29年、21歳?)に東北大学に入学しているようである。したがって、少なくとも第2次世界大戦末期~昭和30年(山折氏が花巻に住んでいた)頃の宮澤賢治に対する地元の人達の多くの認識は、山折氏の母がここで語っているようなものであったのであろう。
実際花巻に住んでいると当時はそのような世間の認識であったということがたしかに漏れ聞こえてくる。ただし、「賢治は気違い」とか「賢治は変人」だったとかそのようなことを顕わに言ったり、山折氏のように大胆に公の場面で言ったりする人は花巻には殆どいないようである。まして、吉田司氏の様な過激な言い方をする花巻人は全くいないようだ。あまりにも賢治が聖人・君子扱いされ過ぎている現状に戸惑っている人は少なからずいるにしても。
それにつけても
冷笑、罵声を浴びせていました。
の部分が特に気になる。たしかに客観的に見ればその行為が冷笑されたことはあったにしても、まさか賢治が罵声を浴びせられていたとは思いもよらなかったからである。
2 関登久也の証言
この賢治の「寒行」に関しては、関登久也が「賢治と信仰 御題目」で次のように語っている。
ある冬の夜、賢治は題目をとなえて町中を歩かれました。常に賢治は、私たち法華経の信者だと世間にいわれるようにならなければならぬ、それには町中で題目をとなえる勇気が必要だと申しておられました。
寒い冬の夜の上町通りを、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と声高に唱題してくるのを聞いたとき、私たちは水を浴びたように愕然としました。ああ、なんたる凜烈な行動であろう、声は遠くからだんだんに近づき、やがて私どもの家の前を真っ直ぐに向いて行きます。すたすたと堅い雪道を踏む草履の音さえし、凛々としたその姿を見た一瞬、私は尊貴なものに触れたような感さえしました。
その時ちょうど賢治の父上が私の家におられましたが、賢治のそういう姿を見て舌打ちし、「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くされました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
もちろん、法華経の信者であり賢治と同じ頃に入信した関のことだからこのように賢治を見ているのは当然といえば当然であろう。
また逆に、周りの多くの人々から当時このように賢治が敬慕されていたということはほぼなかったであろう。それは父親政次郎からしてそうであって、賢治のこの寒行を苦々しく思ってした父の”舌打ち”はまさしくその心の内の現れであったであろう。
3 賢治自身の認識
それでは賢治自身はこの「寒行」についてどう思っていたのであろうか。それは賢治が大正10年1月中旬、保阪嘉内に宛てた手紙から窺える。そこには
…(略)…このときあなたの為すべき様は
まづは心は兎にもあれ
甲斐の国駒井村のある路に立ち
数人或は数十人の群の中に
南無妙法蓮華経
と唱へる事です。
決して決して私はあなたにばかりは申し上げません。実にこの様にして私は正信に入りました。滝ノ口御法難六百五十年の夜(旧暦)私は恐ろしさや恥づかしさに顫えながら燃える計りの悦びの息をしながら、(その夜月の沈む迄座って唱題しやうと田圃から立って)花巻町を叫んで歩いたのです。知らない人もない訳ではなく大抵の人は行き遭ふ時は顔をそむけて行き過ぎては立ちどまってふりかへって見てゐました。盛岡の農学校では化学の一年が見学に来てゐてその一群にもあひました。向こふは校歌を唱ってゐたのです。その夜それから讃ふべき弦月が中天から西の黒い横雲を幾度か潜って山脉に沈む迄それから街に鶏が鳴く迄唱題を続けました。…(略)
<『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)より>
<註>”滝ノ口御法難六百五十年”とはこの校本よれば大正9年の10月23日とのことである。
”あなた(=保阪)”に山梨で寒行をするように迫り、日蓮宗の信者になるように折伏する一方で、賢治自身は恥づかしさに顫(ふる)え、花巻の厳しい寒さに震えながら夜を徹して団扇太鼓を叩き、唱題をしながらひたすら修業をしていたのであろう。
賢治のこの手紙からはその心情が透けて見えて来る。
唱題しやうと田圃から立って)花巻町を叫んで歩いたのです。
からは、気の弱い?賢治は自分を鼓舞するために叫んで題目を唱えたであろうことが。
また、
大抵の人は行き遭ふ時は顔をそむけて行き過ぎては立ちどまってふりかへって見てゐました。
からは”あう”の漢字として遭ふを使っているところかも、賢治はできるなら寒行中あまり人に遭いたくなかったという心境であったであろう事が解るし、この寒行が正直言って恥ずかしかったということなどが。
さらには、行き遭う人の仕草から判断して賢治のこの寒行が彼らから冷たい目で見られ、嘲られ、侮られているということは賢治自身も察していたことも解る。
賢治自身が他人から「気違い」と見られているという認識があったか否かはさておき、少なくとも自分が「変人」と見られているといういう認識はあったということではなかろうか。それゆえに、このような認識が
おれはひとりの修羅なのだ
と詠むことに繋がっていったのだろう…か。
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花巻に住んでいると宮澤賢治のかつての風評が聞こえてくる。すっかり聖人・君子化されてしまった賢治だが、当時の地元の認識は一般にはそういうものではなかったいうことが漏れ聞こえてくる。ただしそれを堂々と公言する雰囲気に今の花巻はないとも思う。
ところが、大胆にもそのようなことを言っている人がいた。山折哲雄氏である。
1.山折哲雄氏の発言
山折氏は自書『17歳からの死生観』の出だしにおいて大胆にも「気違い賢治」というタイトルで次のようなことを書いている。
「気違い賢治」
…(略)…
あるとき、母親から、賢治の若いころの生活ぶりについて、いろいろなことを語ってもらったことがあります。そのとき、ものすごく意外な話を聞かされました。そして、驚いたのです。それは、宮澤賢治に関する伝記とか、研究書には、あまり出てこないようなエピソードでした。…(略)…
その宮澤賢治が、どうしたわけか日蓮宗の世界に入りました。法華経の世界に関心を持ち、日蓮の行者になろうと決意したのです。不思議ですね。科学者の可能性があり、作家になる可能性もあった豊かな才能の持ち主が同時に、宗教家にもなろうともしました。そして、どういうことをしたか。花巻農学校の先生になって、昼は、学校で子どもたちに教えていたのですが、冬になると、「寒行」という修行をしていました。
日蓮宗ですから「南無妙法蓮華経」ですね。知っていますか。真冬の夕方、花巻の街に出て、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」と唱えながら修行をしていました。…(略)…
このときの宮澤賢治のいでたちが、変わった風体でした。絣の着物を着て、その上に黒いマントを羽織った。いいですか、卵の黄身がガチガチに凍ってしまうほど寒い冬の花巻の街を、夕方、黒いマントを羽織った男が一人、、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」と唱えながら歩いていたのです。
町の人は、驚いた。異人がやってきた。気の違った人間がやってきた。得体の知れないことをやっておる。みんな、そばに近づくことをやめたと思います。離れて遠くから、その賢治の姿に向かって、何と言ったか。「気違い賢治」。そして、冷笑、罵声を浴びせていました。
私は、母親から、この話を聞いたとき、ショックでした。その話を、いまだに忘れることができない。…(略)
<『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)より>
多少調べてみると、山折氏は1943年(昭和18年、12歳?)母の実家のある花巻に疎開し、そこで中学と高校時代を過ごし、1954年(昭和29年、21歳?)に東北大学に入学しているようである。したがって、少なくとも第2次世界大戦末期~昭和30年(山折氏が花巻に住んでいた)頃の宮澤賢治に対する地元の人達の多くの認識は、山折氏の母がここで語っているようなものであったのであろう。
実際花巻に住んでいると当時はそのような世間の認識であったということがたしかに漏れ聞こえてくる。ただし、「賢治は気違い」とか「賢治は変人」だったとかそのようなことを顕わに言ったり、山折氏のように大胆に公の場面で言ったりする人は花巻には殆どいないようである。まして、吉田司氏の様な過激な言い方をする花巻人は全くいないようだ。あまりにも賢治が聖人・君子扱いされ過ぎている現状に戸惑っている人は少なからずいるにしても。
それにつけても
冷笑、罵声を浴びせていました。
の部分が特に気になる。たしかに客観的に見ればその行為が冷笑されたことはあったにしても、まさか賢治が罵声を浴びせられていたとは思いもよらなかったからである。
2 関登久也の証言
この賢治の「寒行」に関しては、関登久也が「賢治と信仰 御題目」で次のように語っている。
ある冬の夜、賢治は題目をとなえて町中を歩かれました。常に賢治は、私たち法華経の信者だと世間にいわれるようにならなければならぬ、それには町中で題目をとなえる勇気が必要だと申しておられました。
寒い冬の夜の上町通りを、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と声高に唱題してくるのを聞いたとき、私たちは水を浴びたように愕然としました。ああ、なんたる凜烈な行動であろう、声は遠くからだんだんに近づき、やがて私どもの家の前を真っ直ぐに向いて行きます。すたすたと堅い雪道を踏む草履の音さえし、凛々としたその姿を見た一瞬、私は尊貴なものに触れたような感さえしました。
その時ちょうど賢治の父上が私の家におられましたが、賢治のそういう姿を見て舌打ちし、「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くされました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
もちろん、法華経の信者であり賢治と同じ頃に入信した関のことだからこのように賢治を見ているのは当然といえば当然であろう。
また逆に、周りの多くの人々から当時このように賢治が敬慕されていたということはほぼなかったであろう。それは父親政次郎からしてそうであって、賢治のこの寒行を苦々しく思ってした父の”舌打ち”はまさしくその心の内の現れであったであろう。
3 賢治自身の認識
それでは賢治自身はこの「寒行」についてどう思っていたのであろうか。それは賢治が大正10年1月中旬、保阪嘉内に宛てた手紙から窺える。そこには
…(略)…このときあなたの為すべき様は
まづは心は兎にもあれ
甲斐の国駒井村のある路に立ち
数人或は数十人の群の中に
南無妙法蓮華経
と唱へる事です。
決して決して私はあなたにばかりは申し上げません。実にこの様にして私は正信に入りました。滝ノ口御法難六百五十年の夜(旧暦)私は恐ろしさや恥づかしさに顫えながら燃える計りの悦びの息をしながら、(その夜月の沈む迄座って唱題しやうと田圃から立って)花巻町を叫んで歩いたのです。知らない人もない訳ではなく大抵の人は行き遭ふ時は顔をそむけて行き過ぎては立ちどまってふりかへって見てゐました。盛岡の農学校では化学の一年が見学に来てゐてその一群にもあひました。向こふは校歌を唱ってゐたのです。その夜それから讃ふべき弦月が中天から西の黒い横雲を幾度か潜って山脉に沈む迄それから街に鶏が鳴く迄唱題を続けました。…(略)
<『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)より>
<註>”滝ノ口御法難六百五十年”とはこの校本よれば大正9年の10月23日とのことである。
”あなた(=保阪)”に山梨で寒行をするように迫り、日蓮宗の信者になるように折伏する一方で、賢治自身は恥づかしさに顫(ふる)え、花巻の厳しい寒さに震えながら夜を徹して団扇太鼓を叩き、唱題をしながらひたすら修業をしていたのであろう。
賢治のこの手紙からはその心情が透けて見えて来る。
唱題しやうと田圃から立って)花巻町を叫んで歩いたのです。
からは、気の弱い?賢治は自分を鼓舞するために叫んで題目を唱えたであろうことが。
また、
大抵の人は行き遭ふ時は顔をそむけて行き過ぎては立ちどまってふりかへって見てゐました。
からは”あう”の漢字として遭ふを使っているところかも、賢治はできるなら寒行中あまり人に遭いたくなかったという心境であったであろう事が解るし、この寒行が正直言って恥ずかしかったということなどが。
さらには、行き遭う人の仕草から判断して賢治のこの寒行が彼らから冷たい目で見られ、嘲られ、侮られているということは賢治自身も察していたことも解る。
賢治自身が他人から「気違い」と見られているという認識があったか否かはさておき、少なくとも自分が「変人」と見られているといういう認識はあったということではなかろうか。それゆえに、このような認識が
おれはひとりの修羅なのだ
と詠むことに繋がっていったのだろう…か。
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