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308 賢治の肥料相談・設計の考察(その1)

      《1↑『宮沢 賢治研究Annual Vol.10』表紙》

 前回行ったシミュレーションにより、
 賢治の肥料設計に従って金肥を施す稲作はコストパフォーマンスが非常に高いものだった。
と言えそうだということが解った。

 とすれば、賢治の肥料設計はもっともっと広まっていても良さそうなものなのだが現実はそれほどではなかったようだ。
 たとえば、あの伊藤忠一でさえも
 私も肥料設計をしてもらいましたが、なんせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもには手が出ませんでした。
      <『宮沢賢治―地人への道―』(佐藤成著、川嶋印刷)より>
と証言しているからである。賢治の肥料設計に基づいて僅かの金肥(化学肥料)を追加すれば水稲の収量は著しく増えるはずなのだが、現実はその肥料が買えないくらい当時の農家は金銭的な余裕はなかったということなのだろう。伊藤忠一の家はかなりの水田を有していたはずだがその伊藤の家でさえかくの如しなのだから、小作農家などの零細農家の場合はなおさらであったであろう。

 一方、森荘已池の取材に対して阿部繁(賢治とは花巻農学校で同僚、当時花巻市農業共済組合長)は次のように語っている。
森 賢治の肥料設計は古いんだと、とくとくとして言っているのを聞いて淋しいと思ったことがありましたが。
阿部 その通りです。科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。宮沢さんの場合、岩手県の農業を進歩させたとか、岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません。宮沢さんは試験場長でも育種研究家でもないのですから――。そして農業技術の方から見た場合は低くて貧しく、そしてまずい稗貫あたりの農業のやり方を幾分でも進歩させ、いくらかでも収穫量を高めたいということで、一生懸命やったので、岩手県の農業全般を高めたなどということはありません。そんなことではなくて、宮沢さんの場合、もっとも大事なことは、技術の根本にある、隣人を愛すという深い愛情にあることの方が、はるかに重大なことと信じます。

     <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>
と森の質問に対して阿部は冷静に証言している。この取材は聞くところによると昭和35年前後らしいから、この当時に賢治の肥料設計が時代遅れということであればそれはやむを得ない。ところが、『宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです』という、賢治が行った肥料設計そのものに間違いもあったという農業共済組合長阿部の指摘を軽視は出来なかろう。
 この阿部の証言がはたしてその通りかどうかは浅学の私にはもちろん判断できないが、少なくとも伊藤忠一の証言に関連してなら多少考察できそうなので、以下に幾つかの場合について考察を試みたい。

1.小作の農家の場合
 前回行ったシミュレーションは3町3反歩もの水田を有する豪農の場合であった。しかし、当時はかなり多くの農家が小作農または自小作農(自作を主とし、小作も兼ねている農家)であったはずである。より賢治に救って欲しかったのはこのような零細な農家の方である。

(1) 小作農家の割合
 以前”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その14)”で触れたように〝 昭和初頭、日本の全戸数の約半数は農家で、その農家もほぼ3分の2は小作農または自小作農であったようだ〟ったから、岩手の農家の割合もこれに似たりよったりであったであろう。
 とすると、稗貫周辺のかなりの数の農家は小作をしており、これらの農家の場合も賢治の肥料設計に従えば同様の割合で当然増収が得られるとは思うのだが、小作をしている多くの農家の場合は肥料代の他にさらに小作料も支払わねばならいことになる。自作農まして豪農や地主ならば増収に対してべんぶ(抃舞)したかも知れないが、彼等と違って小作農や自小作農の場合には素直には喜べなかったのではなかろうか。
(2) 高い小作料
 ところで当時の岩手の小作料はどのような割合だったのだあろうか。収穫高の半分以上だとは聞いていたがその資料が見つからずにいた。ところがこの度ある先輩からその資料を頂いた。
 それによれば、当時の岩手県の平均小作料は
   高収穫田  56%
   普通収穫田 54%
   低収穫田  47%
の現物納だったということがこの度解った<*1>。たしかに小作料は高かったのだ。
 というわけで、
 当時の小作料は収穫量の半分、50%程度
としてもいいだろうと思った。それにしても極めて高すぎる小作料に今さらながら愕きである。
(3) 小作農家の悲劇
 とすると、賢治の肥料設計に従って施肥をして2割ほどの増収があったとしても、小作の場合はその半分、50%程度の増収しか恩恵を得られないことになる。小作人だけが頑張ったことによって得られた増収なのに、その半分は地主の物になるという図式だ。
 まして、使用した金肥代金は小作した者だけが払うのだから、小作農家の増収による取り分はさらに目減りしてしまう。もちろんその代金は増収額に比べれば僅かなもののはずだが、小作する側の心理からいえば『折角高い金肥を買って収穫量が増えたって、ごっそりと小作料が取られるしな…』と思ってしまうのも無理からぬことであろう。したがって、わざわざ化学肥料を買ってまでして水稲の収量を上げようとする意欲は小作の場合にはあまり湧いてこなかったのではなかろうか。
 あるいはそれ以前、当時の小作農家の場合には金肥を買うだけの金銭的余裕は全くなく、やむを得ず厩肥や人糞尿に頼っていたのかも知れない。
(4) 賢治の認識
 このことに関して『宮沢 賢治研究 Annual』には
 当時の施肥の一般慣行としては人糞尿が多く使われていた…(略)…土性調査報告書の中には次のように記されている。
 「曾テ東北ニ於テ自給肥料ノ必要盛ニ宣伝セラレ其声過度ニ反響シ一部金肥ノ使用ヲ罪悪視セルモノ出スニ至リキ。然レドモカクノ如キ偏見ハ今日全ク其跡ヲ絶テルコト当然ナルベキヲ信ズ。」と述べている。

        <『宮沢 賢治研究Annual Vol.10』より>       
とあり、当時の農家の施肥に対する賢治の認識が載っていた。しかし、これは宮澤賢治が高等農林研究生、22歳のときの稗貫郡土性調査のものと思われるから、賢治は小作農の悲惨な実態をその頃はまだ充分に理解していなかったとものと推定される。だから賢治は上記のように報告しているのだろうが、何も小作をしている農家が「金肥ノ使用ヲ罪悪視」していたのではなく、彼等はそうせざるを得なかったというのが実態だったのではなかろうか。
(5) 松田甚次郎の場合 
 そういえば、小作人になれと賢治に”訓へ”られて実際6反歩の小作人になった松田甚次郎はこのようなことに鑑みて、金肥を全廃して身の回りにあるものを生かして土地を肥やすことを実践したのではなかろうか。だとすれば、甚次郎が採ったこのやり方はすこぶる現実的であったし合理的、妥当でもあったと考えられる。
 賢治が花巻で近隣の農家に対して身を粉にして一人黙々と肥料設計・稲作指導をしていた頃に、弟子の甚次郎は新庄で鳥越倶楽部(後に最上共働村塾)を組織して仲間と一緒に持続可能な農業経営を試み、今風に言えば〝エコロジーな農法〟を既に実践していたと言ってもよさそうだ。

 いずれ、当時小作をしていた農家にとっては手放しで賢治の肥料設計を受け入れる余裕も金銭もなかったというのが実態だったのではなかろうか。あるいは小作農家に対しては賢治の肥料設計には初めから限界があった、はたまた別な増収方途があったのではなかろうかとも考えられる。たとえば甚次郎の採用したような方法とかが。

 この他にも3つの場合について考察してみたいのだが長くなるのでそれは次回へ。

<註*1> 『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)によれば
 『大正十年府県別小作慣行調査集成』―農林省調査・土屋喬雄編―によると、我が国の小作農家(純小作と自作兼小作農家)の合計戸数は、総農家戸数の約七割を占め、小作地面積は、総耕地面積の約四割七分をしめていた。また収穫高に対する現物納の小作料の割合は、岩手県を例にとると、
  高収穫田  五十六パーセント
  普通収穫田 五十四パーセント
  低収穫田  四十七パーセント

ということである。


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