goo

362 下根子桜時代賢治自身の評価

                 《↑9月23日付「澤里武治あて宮沢賢治書簡」》
                 <『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)より>

 大正15年4月、宮澤賢治があれだけの意気込みで移り住んだはずの下根子桜であったが、不本意ながら病気のために昭和3年8月とうとうそこから退却して実家に戻ってしまった。したがって賢治の下根子桜時代は2年4ヶ月ちょっとで幕を閉じたことになる。

1.下根子桜退却の理由
 賢治自身は下根子桜から退却した理由を、昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(その写真はこのブログの先頭の如し)で次のように明かしている。
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。休み中二度もお訪ね下すったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。こんど出るときは大体葉書を出してください。学校ももう少しでせうがオルガンなどやる暇もありますか。どうかお身体を大切に切角ご勉強ください。まづはお礼乍ら、
    柳原君へも別に書きます。

     <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
 この書簡からは、賢治が実家に戻った期日は8月10日であったであろうことをまず知ることが出来る。
 そして、「大島行き」の際の無謀な滞京日程と、帰花後の畑仕事や近郷への稲作指導の無茶がたたって40日間にわたって豊沢町の実家で病に伏していたと、下根子桜退却の理由を賢治自身が澤里に明らかにしていたのである。
 併せて、快復後は再び下根子桜に戻って執筆活動に入ろうとしていたということも知ることが出来る(ただしは二度と戻ることはなかったのだが)。

2.賢治自身の下根子桜時代の評価
 さて、では賢治自身はこの下根子桜時代をどのように評価しているのだろうか。
 このことに関して、特に吃驚したのは次の昭和5年3月10日付の伊藤忠一宛書簡を知ったときである。
 お手紙拝見いたしました。
ご元気のおやうすで実に安心いたしました。無理をしないで着々進んで行かれることをどんなに祈ってゐたでせう。
農事のこともおききしたいことばかりですが四月はきっと外へも出られますからお目にもかかれると思ひます。
根子ではいろいろとお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
どうかあれらの中から捨てるべきは はっきり捨て再三お考になってとるべきはとって、あなたご自身で明るい生活の目標をおつくりになるやうねがひます。
宗教のことはお説の通りの立場は大きなものでせう。けれどもそのほかにもいろいろの立場はあるかもしれません。
はっきり私はわかりません。
次に法華経の本は
   山川智應 和訳法華経
   島地大等 和漢対照妙法蓮華経
等ありますが発行所がちょっとわかりません。国柱会からパンフレットでも来たらお送りして参考に供しませう。
今年は温床はやりませんか。

      <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>

 それは他でもない、
 たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
という〝くだり〟を読んだときである。完全に肩すかしを喰らってしまった。
 そしてこれと似たようなことは高橋慶吾に対しても話していたと、『私の賢治散歩』は伝えている。
 高橋慶吾さんが病床を見舞ったときも、賢治は「桜ではいろいろもうしわけなかった」と、くり返し語っていたそうである。「最後までやり通すつもりで家を出たのに、病気になってまたもどったから、よけいに気がとがめたんだと思います」と高橋さんは話していた。
      <『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)より>

 あれだけの意気込みで乗り込んでいったはずの下根子桜でのことは、最初から最後まで殆ど病気みたいなものであったと賢治自身が厳しい評価を下し、さらにはその際の幾つかの非礼を伊藤忠一や高橋慶吾に詫びていることに肩すかしを喰らってしまったのである。
 少なくとも賢治自身は後々、約2年4ヶ月間の下根子桜での営為は殆ど意味がなかったと総括し、そこで喋ったことは世迷い言であったと評価し、皆には多大な迷惑を掛けてしまったと詫びているということになる…のだろうか。
 少なからぬ人々がこの「下根子桜時代」のことを「賢治生涯の頂点」であると高く評価しているとも聞くことに対してである。

3.「羅須地人協会」の眩惑
 そして私が下根子桜時代の賢治のことをここまで調べてきてみて思うことは、賢治自身のこの評価を少なからずそのまま素直に我々も受け入れてもいいのではなかろうか、ということである。
 たしかに「菩薩行」ともいえる稲作巡回指導や肥料設計・肥料相談は下根子桜時代の全期間にわたって精力的に行われたし、その成果もある程度あったと思う。ところが、「羅須地人協会」としての活動そのものが一体どれだけの期間行われ、どれだけの内容があり、その意味と価値とがあり、成果を上げたというのだろうか。そこに集った者に対して「羅須」の意味も知らされず、会則も綱領も明らかにされていない「羅須地人協会」であり、あっけなく幕を閉じたそれなればなおさら。

 そもそも、賢治の「下根子桜時代」のことはあえて「羅須地人協会」という用語を使わなくてもその約2年4ヶ月間のことはほぼ語れるのではなかろうかと思えるようになってきた。なまじ「下根子桜時代」のことを「羅須地人協会時代」と呼んだりしているがために、我々は「羅須地人協会」という言葉に眩惑されて真実が見えにくくなているような気がしてならない。

 続き
 ””のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 361 下根子桜... 363 羅須地人... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。