まるで水中に揺れる魚がガラスを隔てた人間と話をしているかのようだ。スーザンはこの婆さんに凝視されることで、徐々にバラバラになっていく世界をジグザグに進み始めることになる。おそらく保坂和志も古谷利裕もいまだ気付いてはいないだろうが、この凝視の直進性というか直線性というか直接性こそが重要なのである。理由はのち詳しく説明するとして、とりあえずはあの水槽の前でのジャックの発言を思い出しておこう。
「私が考えるのは魚の我慢強さと我慢の無さだ。捕われ、検査され、ガラスに入れられて私と同じ種に属する。魚になった感じだ。ガラスの前に、後ろに、視線の前に立たされて、必要な時間、私は待たされる。よく考えるのは、魚たちの時間経験だ。時に地獄のようにも思える。動物に見つめられるたびに、最初に浮かぶ問いの一つは、この近さと、我々を隔てる無限の距離における時間のことだ。同じ瞬間に生きながら彼らの時間経験は私の経験に翻訳不能。そのうえ彼らは私同様、我慢し、我慢せず、ご主人たちの熱意に従っている」(DVD『デリダ、異境から』より)