SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

暗い部屋4

2006年11月30日 | Weblog
「夢のなかに、またもうひとつの夢がある。細部は多様だが、実体は同一だ。わたしは家族もしくは友人たちとテーブルについていたり、仕事をしていたり、緑の田園のなかにいる。要するに、平穏で広々とした環境にいる。表面的には、緊張と苦痛はない。それでも、わたしは微かながらも、深い苦悩を感じている。脅威が迫っているという、はっきりとした感覚だ。じっさい、夢が進んでいくにつれて、少しずつ、あるいは一気に、そのつど異なった仕方で、わたしの周囲のすべてが壊れ、解体する。風景も、壁も、人間も。そして、苦悩はどんどん強まり、はっきりとしてくる。もうすべてがカオスに変わっている。わたしはただひとり灰色で濁った無の中心にいる。そうだ、わたしは、これが何を意味するのか知っている。自分がずっとそれを知っていたことも知っている。わたしはふたたび収容所にいるのだ。収容所の外にあるものは、どれも本当のものではなかった。外のことは短い休暇だったのだ。あるいは、感覚のあざむき、夢だったのだ。家族も、花咲く自然も、家も。もうこの内側の夢、平和な夢は終わった。そして、まだ凍りついたように続いている外側の夢のなかで、わたしはひとつの声が響きわたるのを聞く。周知のものだ。もったいぶってはおらず、それどころか短くて抑えた一語だ。それはアウシュヴィッツでの夜明けの号令で、外国語の言葉だ。恐れられると同時に待ち望まれるものであった。「フスターヴァチ」、起きろ、というのだ」(プリーモ・レーヴィ)

 このプリーモ・レーヴィの夢の話は、ジョルジョ・アガンベンの著『アウシュヴィッツの残りもの』を経由して、田中純氏の著『死者たちの都市へ』へと送られ、そこから我々のブログへと届いたものである。ならば直ちにアガンベンのその論考からこのレーヴィの夢の話の真相へと辿るべきだが、いまの我々といえば、すでにその気力を失っている(爆)。がゆえ、ここではとりあえず田中純氏の解説(『死者たちの都市へ』所収の論考「アウシュヴィッツからの呼びかけ」)にその理解のすべてを委ねたい。
 
「しかし、レーヴィはどこへ向けて目覚めようとするのか? 夢の中の夢、崩壊してゆく平和な夢から「外側の夢」、収容所の夢へ向けて、だけではあるまい。この夢をさらに入れ子状に包み込む夢がある。それは収容所から生還したのちの現実という夢である。なぜなら、「収容所のそとにあるものは、どれも本当のものではなかった」のだから。そしてこの現実という夢から目覚める先は、その内部にあるはずの収容所の夢なのだ。夢の入れ子構造はねじれて、内部の夢が外部の夢=現実を包摂しているのである」(P171~173)

 そして「フスターヴァチ」という号令は、ここで物語の話者が話を中断してその場にいない人物や読者、あるいは擬人化した物・観念に向かって直接語りかける修辞法である頓呼法(アポストロフィ)のようなものとして作用し、この内部と外部を隔てる安全な距離を失わせる、と田中氏は説く。掲載図版はカリン・ハンセンの作品「ピクニック」。(続く)