SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

エッセンシャル・ペインティング

2006年11月03日 | Weblog
 かつて『芸術道場』の黒帯門外漢としてならしていたこともあるアニメオタクのあたしかが、国立国際美術館にて現在開催中の企画展『エッセンシャル・ペインティング』展について、海の物とも山の物ともつかないような提灯批評を展開している。そこではアレックス・カッツという画家について、「日本では現在のところ無名に等しい画家」であるが、昨今の「具象絵画の復権」という新しいムーヴメントの「想像上の起源」として再評価されているらしい~~とか何とか述べられているが、このカッツへの理解は全て間違っている。確かにカッツは「画家」としては無名(というか認知されていない)かもしれないが、「イラストレーター」としてはまぎれもない巨匠であり、その存在を知らぬ者など(あたしか以外に)いるはずがない。また、カッツが新しい具象絵画ムーヴメントの「想像上の起源」であるという認識もデタラメであり、本当の起源はマルティン・キッペンベルガーである。ちなみに、カッツはむしろディヴィッド・ホックニー等と共に、80年代の日本における「ニュー・ペインティング」の流行に一役買ったイラストレーターである。さらに細かい間違いを指摘すれば、そこでミシェル・マジュリュスのモットーだとされる『今日、魅力的に見えるものが、明日、魅力的に見えないかもしれない』というフレーズは、あきらかにあのリチャード・ハミルトンによる記念すべきポップアートの第一号作品『一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか』(1958年)への、「明日」から「今日」への応答であろう。つまり60年代のポップアートで既に否定されていた「普遍的で永遠の美を追求するという格律」は、いまやアイロニーとしてさえ機能しない(=否定の否定)ということだろう。更には......いや、もうきりがないから止めておこう。ふざけたアニメオタクを相手に「芸術」の話を真面目にしても仕方あるまい(爆)。

「良い作品」の条件1

2006年11月03日 | Weblog
 ところで「衰弱」について何事かの心境を語った古谷画伯のエントリーには、アプリオリな規則や制度から外れた「この世界そのもの」に関する野球の例え話が、「何かに触れる」という「良い作品」の条件をめぐり考察されている。しかし古谷画伯の話からは、それがどうして「衰弱」により得られる芸術的発見の報告に至るのか、その関連がよく解らない。いまや「画仙」の境地に入りつつある古谷画伯のような人に、何か気楽に意見するなどということは本来あってはならないことだ。だがそれでも美術ブログ界の末席を文字通りに汚す者の責務として何故か言わせてもらえば、実はこういう事ではないだろうか。すなわち、「それが野球ではなかったかもしれない」という可能性があるという事だ。ルールが違ったとか、別の名称だったとか、他のスポーツに取って代わっていたとかいう話ではなく、たんにそれら全てが「野球ではなかった」という不可能な可能性がつねにある。とすれば「良い作品(絵画)」の条件とは、この世界にそもそも「絵画」なるものが存在していなかったかもしれないという可能性に触れていることだろうか。しかし問題は、そのとき「~ではない」という否定形を用いていることだろう。たとえばマグリットの「これはパイプではない」のように。(続く)