SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

暗い部屋2

2006年11月27日 | Weblog
>単なるフィルムの切れ端――歯磨き粉のチューブに隠せるほど小さな――が、現像や複製、そしてあらゆるサイズへの拡大を、無限に生み出すことができるのである。写真はイメージそして記憶と結託している。したがって写真は卓越した〈感染力〉を備えているのだ。それゆえ写真をアウシュヴィッツから取り除くことは、囚人の体から記憶を取り除くのと同じくらい難しかったのである。(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(平凡社)P34より抜粋)

 我々の関心は限られている。もとよりゴダールの『映画史』はおろかランズマンの『ショアー』さえ観ようとしない我々にとって――そして何かの手違いから高校で歴史を履修していなかった多くの者達にとっても――人類の歴史に関する表象不可能性の問題など、およそ手に負えるものではない。調子に乗って迂闊な意見でもしようものなら、直ちに左翼系論壇のわけのわからぬオッサンや東大ルプレザンタシオン系のイタいアンチャン達からキツく反駁されるに決まっている。我々の関心は「これら4枚のイメージは、実のところ想像不可能性に関するふたつの空間、ふたつの別の時代に宛てて送り出されていた」(P29)というユベルマンの記述が何を意味しているのか、ということに限られる。まず第一に、想像不可能性に関するふたつの空間とは、想像不可能性の空間と、それ以外の想像不可能性すら不可能な空間のことである。そして第二に、ふたつの別の時代とは、災厄の只中にあった時代と、それ以降の時代のことであろう。そしておそらくユベルマンはこのふたつの次元を、同時に「並行」したものとして捉えている。イメージの「感染」は、このふたつの並行した次元で、同時に進む。あらゆるイメージのもつ二重の体制――モナドの直接性と内在するモンタージュの複雑性――が、その「感染」の並行移動を可能にする。ふたつの次元への卓越した〈感染力〉を備えたこれらのイメージは、災厄の只中(ガス室の内部)から発信された緊急のメッセージ(S.O.S)である。写真はイメージそして記憶と結託しているのだから、これらの写真を解読することが、イメージに託した収容者たちの記憶を、――たとえその災厄の時代では不可能であったとしても、それ以外の並行空間、もうひとつの別の時代にて――救出することとなるのである。モンタージュの複雑性が、彼らの記憶の救出とその復活を、ここで呼びかけているのである。(続く)