第二回目の講義は、20世紀絵画の臨界点ともいうべきゲルハルト・リヒターの作品についてお話したいと思います。現在、川村記念美術館にてリヒターの回顧展が開催されています。受講生の皆さんはもうご覧になられましたか。このアンゼルム・キーファーに並ぶドイツ現代絵画最後の巨匠の展覧会は、アート関係者であれば絶対に観ておかねばなりません(ところで余談ですが、リヒターもキーファーも共に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞しています。リヒター第9回(97年)、キーファー第11回(99年)、共に絵画部門)。
リヒターの作品の多くは、それを観るものに何か奇妙な不安感を抱かせます。たとえば、リヒターの描いたフォト・ペインティングは、みな何かがおかしい。だが何がおかしいのか、よく分からない。美術館で作品を続けて観ているうちに、何故か「ここに長く居てはいけない」という思いが強くなってくる。たぶん、ここでは何かが取り返しの付かない状態に陥っているような気がします。
「絵画の死」という言葉ほどリヒターの作品に相応しい言葉はありません。どうやら観る者に抱かせるこの不安感は、この即物的に「死んだ絵画」を観ているという実感から来ているようです。リヒターは絵画を殺す。そして観る者はその冷たくなった絵画に触れ、いたたまれなくなる。
なんとなく納得しました。でも、どうしたのでしょうか。不安感は相変わらず続いています。何かがおかしい。リヒターの作品を理解すればするほど不安は増し、もはや恐怖すら感じ始めてきます。心の奥から「ここから逃げろ」と言う声が聞こえてくる。いったいこれは......。
リヒターの絵を観ていると、確かに何かが死んでいるのを感じます。しかしどうやら「絵画」が死んでるわけではないようです。そう、リヒターが殺したのは「絵画」でもなければ「美術史」でもない。ではいったいそこでは何が死んでいるのでしょうか
そこで死んでいたのはね、絵画ではなく、その絵を観ている自分のほうだったんですって(CV稲川淳二)。
リヒターの絵が死んでいるのではなかった。その絵を観ている自分が既に死んでいるのです。人はよく「自分が死ねば世界も無くなる」と言います。もちろん本当に世界が物理的に消失するわけではない。だが自分のいなくなった世界とは、もはや「自分にとって」は即物的で不可知なモノの世界です。リヒターの絵には、そうした自分が死んだ後の世界の感触が描かれている。そこで私たちはリヒターの絵に何も見てはいない。すでに絵を前にして死んでいるのだから......。これが20世紀絵画の最後の真実なのです。
何か間違っているような気もしますが、とりあえず今日の講義はここまでです。なにか質問等ありましたらコメントください。
リヒターの作品の多くは、それを観るものに何か奇妙な不安感を抱かせます。たとえば、リヒターの描いたフォト・ペインティングは、みな何かがおかしい。だが何がおかしいのか、よく分からない。美術館で作品を続けて観ているうちに、何故か「ここに長く居てはいけない」という思いが強くなってくる。たぶん、ここでは何かが取り返しの付かない状態に陥っているような気がします。
「絵画の死」という言葉ほどリヒターの作品に相応しい言葉はありません。どうやら観る者に抱かせるこの不安感は、この即物的に「死んだ絵画」を観ているという実感から来ているようです。リヒターは絵画を殺す。そして観る者はその冷たくなった絵画に触れ、いたたまれなくなる。
なんとなく納得しました。でも、どうしたのでしょうか。不安感は相変わらず続いています。何かがおかしい。リヒターの作品を理解すればするほど不安は増し、もはや恐怖すら感じ始めてきます。心の奥から「ここから逃げろ」と言う声が聞こえてくる。いったいこれは......。
リヒターの絵を観ていると、確かに何かが死んでいるのを感じます。しかしどうやら「絵画」が死んでるわけではないようです。そう、リヒターが殺したのは「絵画」でもなければ「美術史」でもない。ではいったいそこでは何が死んでいるのでしょうか
そこで死んでいたのはね、絵画ではなく、その絵を観ている自分のほうだったんですって(CV稲川淳二)。
リヒターの絵が死んでいるのではなかった。その絵を観ている自分が既に死んでいるのです。人はよく「自分が死ねば世界も無くなる」と言います。もちろん本当に世界が物理的に消失するわけではない。だが自分のいなくなった世界とは、もはや「自分にとって」は即物的で不可知なモノの世界です。リヒターの絵には、そうした自分が死んだ後の世界の感触が描かれている。そこで私たちはリヒターの絵に何も見てはいない。すでに絵を前にして死んでいるのだから......。これが20世紀絵画の最後の真実なのです。
何か間違っているような気もしますが、とりあえず今日の講義はここまでです。なにか質問等ありましたらコメントください。