カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

【インド映画】 ~ボース・ザ・フォーゴットン・ヒーロー~

2020年08月06日 22時42分59秒 | 映画 / MOVIE

2004年公開の作品。タイトルが・・・
忘れられたヒーローと言うのは寂しい。
既にインドでも忘れられた存在なのだろうか。

8月15日のインド独立記念日にちなんで・・・ではないが、
偶然見つけたので3時間を超える大作を観た。
第二次世界大戦の舞台となった東北インドの
マニプル州のインパールとナガランド州のコヒマにも、
行ってきている事だし、インドへの理解を深めるために、
特に私は観るべきであろう。観なければならない。

インド独立に貢献した人物としてガンディーは有名だが、
実はもう一人ネタジ・スバシュ・チャンドラ・ボースがいる。

1897年旧ベンガル州(現オディッシャ州)出身、1945年没。
ネタジとはヒンディ語で尊敬される指導者の事。
ガンディーの独立運動に参加したが、ガンディーの唱える
非暴力での独立は理想だが現実的ではないと、
途中で強硬派へと路線を変えた。

インドのほとんどの学校や公的機関には、
ガンディーとボースの肖像画が並べて飾られている。
ガンディーも本名モハンダース・カラムチャンド・ガンディーだが、
マハートマ(ヒンディ語で偉大なる魂)・ガンディーと呼ばれてる。

映画は1941~3年のドイツでの生活、
日本占領下の1943~5年のアジア(主に戦闘)。
インパール作戦に関してはINA(インド国民軍)の部分のみ、
描かれている(日本軍1944年3月8日~7月1日)。
この後のビルマ・インド国境の戦闘もあり。

以下は私個人の考えである。
ボースが1943年に日本に来て東条英機首相に会わなければ、
1944年ミャンマーで河辺正三中将に会わなければ、
あの史上最悪の作戦と言われているインパール作戦は、
おそらく行われなかった・・・・。そして、
インド独立に日本が多大な協力したと言う事を、
日本人には知って欲しいし、インド人には忘れて欲しくない。

  <ストーリー> 

ボース(サチン・ケデカル)がガンディーと袂を分かつ、
シーンから始まる。

ボースはカルカッタの自宅を抜け出し、
イスラム教徒の変装をして鉄道でパキスタンの
ペシャワールを経由しロシアへと向かう旅に出た。

ペシャワールのロシア大使館で亡命は叶わずとみたボースは、
イタリア大使館の手配でパスポートを取得し、モスクワ、
ローマを経由し1941年ドイツのベルリンへ渡る。

1942年ヒトラーとの交渉がうまく行かなかったため、
日本大使館と接触を図る。シンガポールや香港で捕虜になった、
インド人兵で結成されたINA(インド国民軍)を、
ラース・ビハリー・ボースからスバスへ引き継ぐ事になる。

1943年2月ドイツ軍の潜水艦Uボートで日本へ向かう。
喜望峰で乗り換えたボースは6月に東京で東条英機首相と会談。
その後シンガポールでINA軍を整え、1944年1月には、
ミャンマー(当時ビルマ)へ拠点を移す。
そこでビルマ方面軍司令官の河辺正三中将と会談し、
インパール作戦へと進行して行く。

 映画では、とても難しいと言う河辺中将を、
 ボースが押し切るような感じだった。

1944年3月、INA軍はミャンマーとインド国境にある、
チャンドウィン河を渡る。4月にはインド・ナガランド州の
コヒマへ到着。そしてインパールへ進軍する。
しかし日本軍はビルマのラングーンに向けて撤退。
ボースは食料と弾薬など物資の補給を河辺中将に要請するが、
本部の司令でできないと断られている。

 日本軍は描かれていないが、6月には一部が撤退を開始、
 7月1日には作戦の中止が発表されている。

この後もチンドウィン河を挟んだ国境にINA軍は滞在し、
しばしばイギリス軍と戦闘を行っていたが、
軍備の差は歴然としており、最終的には撤退。

1945年8月11日、ボースはシンガポールで、
日本に原爆が投下され降伏の準備がされている事を聞く。
そして17日、ベトナムのサイゴンから日本軍の飛行機に
搭乗したボースは事故で死亡する。

 実際には18日14時、台北より大連に向かおうとした、
 日本軍の飛行機が離陸時に事故を起こし炎上。
 ボースは手当てを受けたが23時41分死亡。

軍事裁判のシーンがあり、
そして1947年8月15日インド独立、
デリーのラール・キラーが映って、完。

 さすがに歴史的大作なので日本人キャストは日本人・・・
 と思ったら東条英機役は名前からしてチベット人だった。
 最後に飛行機に搭乗させる日本人も顔つきが違った。
 ベルリンの日本大使は名前から日本人のようだったが。

 なお、ボースの死については疑問視する意見も多く、
 しばらくは生存説もまことしやかに語られていた。
 インド人に死が受け入られなかった事もあり、
 荼毘に付された遺骨は杉並区の連光寺に保管されたのち、
 ボースの孫に返却されている。墓は連光寺にある。

 

 

 

 

 

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