東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

樋口季一郞中将と北海道

2022-08-03 | 安全保障

 


 



 樋口季一郞中将は、ソ連(ロシア)が北海道を占領するのを防いだ恩人である。

 日本がポツダム宣言を受け入れて昭和20年8月15日に天皇の玉音放送があり、連合軍に降伏した。8月15日以降に武装解除する予定であったがソ連(現在のロシア)が千島列島東端の占守島(しゅむしゅとう)に上陸作戦を開始し、攻撃を開始し、1945年(昭和20年)8月18日 - 21日にの間、占守島で大規模な防衛戦を行った。留萌釧路ラインの北側、もしくは北海道全島をソ連の占領下に置かれる予定だった。
樋口季一郎中将は第5方面軍司令官・参謀長として北方の防衛を担当し、ソ連(ロシア)の終戦後の無謀な北方侵略に対し、8月18日以降の占守島・南樺太防衛戦を指揮し、抵抗戦によりソ連の侵略の速度を遅らせた。北海道石狩市にある樋口季一郎記念館館長の江崎幹夫さんのお話によれば、連合国のマッカーサー指令官に2度に渡り打電し、ソ連の野望を阻止したとのこと。それは樋口中将が主に情報関連の武官であったため、連合軍への通信ルートを熟知していたこと、ただし情報系では中将までで大将にはなれなかったことなどを伺った。





樋口季一郎記念館 江崎幹夫館長
北海道石狩市


 他にも重要な行動がある。それ以前に満州に赴任していた1938(昭和13)年3月、樋口は満州国との国境にあるソ連領オトポール駅からヨーロッパからのユダヤ人難民を満州に受け入れ、当時の東条英機参謀長と交渉し上海ほか米国へと避難させた人道支援を行ったことも特筆すべきことだ。これは「ヒグチルート」と呼ばれている。リトアニア領事館外交官杉原千畝のユダヤ難民の「命のビザ」発行の2年前にシベリア鉄道ルートが出来ていた。記念館の江崎館長によれば、杉原千畝も情報関連の武官だったことが最近判ったとのこと。 


ヒグチルート
ユダヤ人 避難ルート



 北海道を守った樋口季一郞中将の生まれが兵庫県淡路島の南部、現在の南あわじ市阿万上町の出身であることを知ったのはごく最近のことだ。近々、兵庫県淡路市にある伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)に樋口季一郞中将の銅像が建立されるとのことだ。戦後の教育では軍隊や日本軍の話はタブーにされ、樋口中将のことも殆ど知られないままに来た。敗戦濃厚となった時期にも家族を守るため必死に戦っていた日本人のことを忘れてはならない。南方、沖縄、本州に加え北方では満州、樺太、千島の防衛とシベリア抑留など苦難を乗り越えてきた。問題はあるにしても、特に国防を担当する軍隊を持たない国家が如何に悲惨な結末を招くことを忘れてはならない。

 小生の生まれ故郷は淡路島にある。北海道に関して、司馬遼太郎の「菜の花の沖」の小説にあるように、江戸時代末期に北前船を繁栄させエトロフ、クナシリまで開拓しロシアとも交渉した淡路の出身者である高田屋嘉兵衛がいる。加えて樋口季一郞中将の業績も見直されていることは誇りにしてよい。


バイクで苫小牧から石狩市まで



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブルーベリーの季節 | トップ | 樺太(サハリン) LNG船 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

安全保障」カテゴリの最新記事