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12.8宣戦および終戦の詔書 国立公文書館

2021-12-06 | 歴史散歩
宣戦に関する詔書 昭和16年12月8日

国立公文書館

 奇しくも国立公文書館は旧近衛師団の司令部の近くにある。宣戦および終戦の詔書など歴史のキーポイントとなった詔書、天皇の公式文書が公開されている。昭和16年12月8日は日本と米英とが戦争に突入した日だ。米国では日付変更線の関係で1941年12月7日にあたる。
 日米は満州の問題から発して利権が交錯していたが、戦争の発端となったのは米国の日本に対する石油の禁輸だ。軍艦を動かす石油が1年分もないことから軍部を中心にしびれを切らして走り出したのだ。マスコミが扇動し国民がそれを助長した。
 現在に置き換えれば、再生可能エネルギーなどと浮かれている場合ではない。石炭石油LNGを確保し、原子力を活用する以外に道はないことを肝に銘ずることだ。再生可能エネルギーは国富蓄積と同時にエネルギー戦略を立て、国際的に先行する技術を確保しつつ進めれば良い。

宣戦に関する詔書
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。
中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。
皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。
 御 名 御 璽
  昭和十六年十二月八日
     各国務大臣副書

昭和16年12月8日の開戦の後、ポツダム宣言を受け入れ昭和20年8月15日の玉音放送に至る。 

以下は終戦の詔書

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