東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

雨の日は三島由紀夫とFukushima 50

2020-07-15 | 安全保障
毎日雨が鬱陶しく続く。
こんな日は映画に行く。
午前と午後に連続して見た。どちらも3月の封切りの後、コロナ禍のため映画館の上映が中断し、再開した後に上映終了が多分今週中らしいので慌てて行った。やっと鑑賞に間に合った。

「三島由紀夫と東大全共闘」
「Fukushima 50」
どちらも重いテーマだ。





個人の年譜を含めると以下のようになる。
1969年1.18~1.19 東大本郷安田講堂封鎖あり
1969.3月~4月 原子核工学科の研修旅行 福島1号炉の建設現場を見学。日立、東芝など工場見学、就職している先輩から案内説明頂く。
1969.5.13 「三島由紀夫と東大全共闘」 討論会 駒場900番教室
1969.9.25 藤圭子デビュー 「新宿の女」 
1970.2月 トレーラー可搬型移動式原子炉の炉心核熱設計 卒論提出
1970.7月~8月 日本原子力研究所で学生研修 ライナックブースター型原子炉の核熱設計
1970.11.25 三島由紀夫 市ヶ谷駐屯地で自決
1971年 ライナックブースター原子炉設計のテーマで日本原子力研究所で学生研究員として1年間研修。
1972.1 札幌冬季オリンピック
1972年~3年間 京都大学にて原子炉事故時の過渡沸騰に関する研究
その前の1967年から1968年にかけて東北大学原子核紛争があった。

考えて見れば、忙しい学生時代だった。
この時代に一生の半分くらいの経験をした。

映画のことだが、三島由紀夫は紳士だった。背景は深く語りも優しい。一方、全共闘の学生は何を言っているのか挑発的で観念的過ぎた。その後、時間軸と実存を認識出来ず全共闘は衰退に向かい、学生は公務員、大学教員、予備校教師、マスコミ、芸術家、あと民間へと散りそれぞれ50年間の人生を歩むことになる。
「Fukushima 50」は現場の強さと時の首相の酷さが目についた。事故は津波を甘く見たことが全ての原因だ。東北全体の津波被害は筆舌に尽くせない。それでも鎮魂しエネルギー問題に立ち向かわなければならぬ。同じくコロナ禍の後も前を向かねばならない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 乱れ髪 藤圭子 | トップ | 梅雨寒に石で暖とる蜻蛉かな »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

安全保障」カテゴリの最新記事