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東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

岩櫃城址 真田一族

2020-12-08 | 歴史散歩
岩櫃城趾は群馬県JR吾妻線の群馬原町駅の近くにある。
六文銭の懐かしい旗印が見える。

岩櫃城は真田一族の真田幸隆、信綱、昌幸の居城だった。
真田昌幸の長男信幸と次男幸村はこの城で育った。
信幸は徳川方、幸村は豊臣方に付いたことは有名な話だ。

真田幸村が大阪夏の陣で果てた後、幸村の娘や次男が伊達政宗の重臣白石城主の片倉小十郎景綱、重綱に引き取られ、子孫は徳川の時代をひっそりと生き明治まで生き延びたことは有名な逸話だ。幸村の次男の所領が宮城県蔵王町矢附付近にあり、子孫が生き残ってきた。









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赤井遺跡 宮城県矢本 飛鳥奈良時代

2020-11-19 | 歴史散歩
 赤井遺跡は宮城県東松島市矢本赤井にある。

 赤井遺跡は7~8世紀にかけて古代陸奥国の牡鹿柵・牡鹿郡家と呼ばれる城柵官衙遺跡である。関東上総地方からの移住者によって営まれた集落跡で、後の道嶋氏につながっていく氏族が一帯を支配した。
 7世紀後半には、宮城県北部全体に関東地方北西部と東北南部から大量の移民が送り込まれたそうだ。これは明治維新後の北海道へ屯田兵派遣や日本各地からの集団移住とよく似ている。
 
 小生は、牡鹿柵は牡鹿半島にあるものと勘違いしていた。牡鹿半島ではなく東松島市矢本周辺だったのだ。

 西暦780年宝亀11年に伊治公呰麻呂の乱(宝亀の乱)が起きた。伊治公呰麻呂が陸奥按察使紀広純、牡鹿郡大領道嶋大楯を伊治城にて殺害した。道嶋大楯はもともと東北蝦夷の出身であるが、朝廷側に協力していて官位を授かっており、他の東北蝦夷の多くから恨まれていたようだ。

 その約100年後、平安時代西暦869年(貞観11年)に貞観三陸地震による大津波が三陸や仙台周辺を襲い大被害が発生している。2011年3月11日の東日本大震災は千年前の大津波の再来といわれている。グーグルマップによれば赤井遺跡がある公園には、今回の東日本大震災の津波被災者のための仮設住宅が設置されていたようだが、現在は撤去されている。




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名生館官衙(みょうだてかんが)遺跡 飛鳥奈良時代

2020-11-18 | 歴史散歩



 名生館(みょうだて)官衙(かんが)遺跡は宮城県大崎市古川近くの城生地区にある。場所はJR東大崎駅に近い。設置は7世紀末~9世紀といわれる。アテルイが活動していた時期の玉造の城柵はこの付近と思われる。

 以前に地元のラジオ局の放送で聞いた記憶があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけて、現在の兵庫県姫路市飾磨(しかま)地区から現在の宮城県大崎市近郊の加美郡色麻(しかま)町付近に多くの移民が送り込まれ、「しかま」の地名が残ったといわれれる。

 北海道は明治維新以前には松前藩やごく一部を除いては人口は多くなかったが、明治維新以降に東北を含む全国各地から人々が大量に移住し現在の人口は500万人以上になっている。東北地方については古く飛鳥奈良時代のころから全国各地より移住してきたようだ。

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桃生城 西暦760年完成 14年後焼失

2020-11-10 | 歴史散歩
 桃生城(ものうじょう)は宮城県旧桃生郡にあり、現在は石巻市と合併されている。北上川の下流、涌谷の東にある。

 西暦758年(天平宝字2年)造営開始、2年後760年(天平宝字4年)完成、774年(宝亀5年)に海道の蝦夷(えみし)の攻撃を受け焼失したとある。
 その後に伊治公呰麻呂の乱(宝亀の乱)780年(宝亀11年)があり、東北蝦夷の大規模な反乱につながる。多賀城の設置以後、涌谷の金の産出があり、その後に多賀城の出城である桃生城を築いた時期は、朝廷側の動きが大きな圧力となったと推測できる。

 現地の桃生城跡は、教育委員会の発掘調査の跡は公開されていないのか、城跡の小高い丘の取り付きが不明だった。バイクで行って民家の裏庭に迷い込んだりして、迷惑がかかりそうだったので、結局は発掘跡にたどり着けなかったという次第です。





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伊治城(宮城県栗原市)西暦767年設置

2020-11-03 | 歴史散歩
 伊治城跡は宮城県栗原市築館の近くにあり、西暦767年(奈良時代:神護景雲元年)に設置された。伊治城は「いじ」城と呼ばれるが、「これはる」が旧来の呼称で、「くりはら」の語源のようだ。
 
 多賀城設置が奈良時代西暦724年、涌谷での我が国初の砂金の産出が749年、桃生城が760年設置なので、伊治城は桃生城の7年後に設置された。桃生城、伊治城ともにいずれも多賀城の出城としての機能を果たし、勢力を拡大している。これは私見だが、地理的に見て、涌谷丘陵の金の産出をきっかけにして涌谷の東に桃生城、北に伊治城を設置したと読めなくもない。

 西暦780年(奈良時代:宝亀11年)の伊治公・呰麻呂の乱(宝亀の乱)が起こり、東北蝦夷(えみし)と中央政権の抗争が大規模化するきっかけとなった。伊治公呰麻呂が陸奥按察使紀広純、牡鹿郡大領道嶋大楯を伊治城にて殺害した。呰麻呂に呼応した反乱軍が陸奥国府多賀城を襲撃し焼失した。やはり中央政権から、それまで分散していた東北蝦夷に相当の圧力がかかったことによる反発があったのだろう。

 中央政権と胆沢(現在の岩手県奥州市)の阿弖流為(アテルイ)軍との直接の攻防が始まるのは、西暦780年伊治公・呰麻呂の乱(宝亀の乱)に呼応して蜂起したことが大きい。

 伊治城は一迫川と二迫川に囲まれた自然要害の小高い丘の上にあり、遠く栗駒山も望める。






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日本初 涌谷の金を献上 西暦749年

2020-10-24 | 歴史散歩
 奈良時代西暦749年(天平21年)涌谷(現:宮城県大崎市)(陸奥国小田郡)で日本最初の金の産出。
 それまでは国内に金の産出はなく、輸入していた。涌谷から黄金900両(約13kg)を献上した。奈良東大寺の大仏の金メッキに使用された。水銀のアマルガム法により銅製の大仏に金メッキをした。
 東北地方で金が産出され、中央は沸き立った。これ以後、東北地方は以前にも増して中央政権に狙われて平定され、鎌倉幕府になるまで400年近く動乱が続く。
 
 若い学芸員の方に伺うと、涌谷付近の山は褶曲により金が集積しやすく、上流の北上地区の金が流れてきたのではないかとのこと。いずれにしても太平洋プレートが北アメリカプレートとユーラシアプレートに潜り込みマグマにより火山活動が活発になったことで金を析出して集まるようだ。




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胆沢城 西暦802年造営

2020-10-22 | 歴史散歩
胆沢城趾は岩手県奥州市水沢にある。
西暦802年(延暦21年)造営。
西暦808年(大同3年)に鎮守府が国府多賀城から分離され、胆沢城へ移された。

隣接して奥州市埋蔵文化財調査センターがある。
ここには胆沢城と古代東北蝦夷(エミシ)について詳細な展示がある。
朝廷側とエミシの関係がよく理解できる。
阿弖流為(アテルイ)の史実についても展示されている。






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阿弖流為(アテルイ)降伏 西暦802年

2020-10-21 | 歴史散歩
高橋克彦の小説「火怨」(副題・北の耀星アテルイ)上下巻
読み応えがある。
アテルイは802年に築城中の胆沢城で降伏した。
相手は坂上田村麻呂。



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志波城 西暦803年

2020-10-18 | 歴史散歩
現在の盛岡近郊にある志波城址
平安時代初期の西暦803年
征夷大将軍 坂上田村麻呂が造営した











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秋田 出羽の柵

2020-10-17 | 歴史散歩
秋田に柵を置いたのは西暦647年が最初のようだ。
現在の仙台に郡山官衙(役所)を設置したのと同じく飛鳥時代に始まる。








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