すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

独り視聴者委員会~配役の妙

2017年10月21日 | 雑記帳
 今クールのドラマ、「月9」のように選挙絡みでスタートが遅れたものもあり…。ドラマ低迷のなかで心惹きつけるものがあるやなしや。嵐の桜井翔主演『先に生まれただけの僕』はどうだろう。ステレオタイプの設定だし、主人公のあまりの単純さも気になる。個性的な役者を揃えたが、イメージ通りで意外性がない。



 同じ学園モノでは『明日の約束』か。スクールカウンセラーが主役になる時代だなあと思った。出来事の描き方はなかなか見せた。登場した母親3名(仲間由紀恵、青山倫子、手塚理美)が、すべて問題を抱える設定になっていることに気づく。珍しくはないが、そんな傾向が筋を支えていることが典型になっている。


 中学生が殺人事件の犯人となった『BORDER 衝動~検視官・比嘉ミカ~』というスピンオフ作品がなかなか面白かった。29日から始まる本編も面白いだろう。波留という女優はこういう狂気性を秘めた役にお似合いで、セリフも決まっていた。「子どもの顔をかぶっているけれど、なかみはモンスターなのだと思う


 BORDERと同じ脚本家金城一紀の『奥様は、取り扱い注意』は、ドタバタコメディタッチだ。しかし筋は、形を変えた「水戸黄門」路線。日本人の好むところだ。綾瀬はるか扮する元工作員が過去を捨てて主婦に、という奇天烈な設定だが、夫が西島秀俊なので終盤で対決があるのではないかと視聴者が騒いでいる(笑)。


 2話目で視聴率が下がったらしいが、実は第1話よりずっと面白かったのが『刑事ゆがみ』。浅野忠信と神木隆之介の組み合わせもいいが、脇役やゲストの個性が光っていると感じた。特に斎藤工の下着フェチ役には笑えた。水野美紀も苦悩を抱える役が似合ってきた。ドラマは役者の力を引き出してナンボだと思った。

源が語る「優秀な集団」

2017年10月20日 | 読書
 「私が好きになるものは割といつも早くなくなってしまう。」この一文で著者へのシンパシーがぐっと上がった。我が家で語り継がれるジンクス(笑)そのままである。あの乗り物も、あの発泡酒も、あのスポットも…楽しそう、美味しそうと手を出した事物がことごとく消え去る。そう感じている人は意外と多いのかな。



2017読了104
 『そして生活はつづく』(星野源 文春文庫)


 「駄目っぷり」や「他者についていけない感」を語るエッセイは結構読んでいて、そのぬるいが俯瞰的な目が好きだ。書き手の系統は明らかだ。宮沢章夫、宮藤官九郎、松尾スズキ…とこんな面々が続いたあとに、星野源が登場するのはごく自然か。今の世にマッチする、ある意味の軽さや伸びやかさが魅力になる。


 ひとりっ子として育ち、ずいぶんと行く末を左右する「腹の弱さ」を抱え、周りに様々な話題を提供してきた著者が、今に行きつき、こんなふうに書いていることが素晴らしい。「生きづらさを緩和するために表現をするのだし、マイナスがあるからプラスが生まれるわけだし、陰があるから光が美しく見えるのである


 この著は某雑誌の連載のまとめだが、「ひとりはつづく」という章が書き下ろしになっていて、それゆえ著者の考えがコンパクトに集約されていると思った。次の文章は、これから中核としてこの国の社会を支えていく世代の一つの代弁ではないか。唐突だが、こういった意識が反映される選挙結果にしてほしいと願う。

 本当に優秀な集団というのは、おそらく「ひとつでいることを持続させることができる」人たちよりも、「全員が違うことを考えながら持続できる」人たちのことを言うんじゃないだろうか。

「次の角」…13年経っても

2017年10月19日 | 教育ノート
 早朝から近くの山に「恵み」をいただきに出かけた帰路、遠くの通学路に登校する子どもたちの姿が見えた。オレンジのトレパン姿である。あっ、マラソン大会だなとすぐわかった。その後はおそらく恒例のなべっこ会。職員は準備やら世話などであれこれ忙しいが、子どもたちにとっては「楽しみ」な一日である。



 ここしばらくマラソン大会では開会式で話をする役目だった。そこでは定番的に「マラソンの起源」と「あきらめない力を試す」ことを話していた。雑誌原稿にも書いたことがあった。以前はどうだっけなあ、とふと思い出したのが「閉会式」での話。覚えているということは何かあると…13年前のメモを見つけ出した。


次の角 10/20/2004――――――――――――――

 校内マラソン大会の閉会式で話をすることになった。
 走りの技術的なことはないだろうし、うーんっと悩んだ末、ずいぶん前の新聞広告?を思い出しながら、話を進めた。
 以下、話したことの一部再現

−−−−−−−−−−−−
(略)

 長い距離を皆さんが考えながら走っていることがわかりました。
 そして、先生はあることを思い出しました。

 この頃、日本ではマラソンというと、女子の選手が活躍していますが、昔はオリンピックでは男子だけの種目でしたし、男子でもメダルをとった人がいます。

 君原健二という人は、ずっと前のメキシコで行われたオリンピックで銀メダルをとりました。

 この人の話が新聞に載っていたことがあって、とても印象深く、今でも覚えていることがあります。

 それは、マラソンの選手は毎日何十キロも走る練習をするわけですが、それだけやっても、毎日「苦しいなあ、いやだなあ」と思うんだそうです。
 そのときにどうするか、ということです。

 街の中を走っていて、そういう苦しい時に「ああ、あそこの角までまずがんばろう」と思うんだそうです。
 そして、その角を曲がったら
「ここまで来たんだ。次はあの角までがんばってみよう」
 そして、また次の角を曲がったら、また次の角まで…そんなふうに、続けていって、練習をやりぬくんだそうです。

 目標は遠くにあるんだけれども、一気にそれを目指すのではなく小刻みに、めあてをもって、それに向かって進んでいく方が大きな力になっていくんだよ、ということです。

 毎日少しずつだけどマラソン練習を続けた人は、それが、きっと貯金のようにたまって、体や心を鍛えたと思います。

 これは運動だけでなく、勉強や学校でのいろいろな活動についても、同じことです。

(以下略)
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 大人でもそうだろうが、次の角が見えないと意欲も減退していく。
 次の角をしっかりと示すことも教育の大切な要素なのだと思う。

「ぼのぼの」と表現者たち

2017年10月18日 | 読書
 『ぼのぼの』という漫画は知らなかった。書店の「新書」コーナーに『泣きたい日のぼのぼの』という編集版があり、手にとった。動物が登場人物の四コマ漫画、シュールというか言葉のずらし方が独特というか、楽しくはないが浸りたい気分にもさせられた。巻末に作者の対談があり、そこから「」を拾ってみた。



Volume81

 「アートというか芸術ってのは私に言わせれば、できるだけ言葉から遠くに行った人が勝ちだと思うんですよ。ただ言葉から遠くにずうっと行っちゃうと、誰も分かんなくなっちゃいます。だからみんなに分かったもらった上で、言葉からこんなに遠くまで来たんだということをやれればいいですけど、やってる本人しか分からない世界かもしれませんね」(いがらしみきお)

 「言葉から遠くに」という感覚はよく分かる。
 「言葉にできない」ことを、どのレベルで意図的に表現できるかということだろうか。

 よく美術作品に『無題』という題があるが、それはいったいどの段階の無題なんだと、凡人はいつも思う。
 「感じればいいんですよ」としたり顔で言う人はいるけれど…。
 そんな気持ちでいても、あうべき作品に出合えるものなのか。


Volume82

 「たとえば曲を作った後、誰かがそれを聴いた時点でもうその人の音楽だと思うのです。誰かが曲を聴いて泣いたとして、その涙に自分が関係しているという気はしないですね。泣いたり、癒されたりっていうのは、誰かのコントロール外にあってこそ面白いと思います。」(やくしまるえつこ)

 対談相手のミュージシャンの言葉。この突き放しは半端ではない。
 ここに見える所有感の無さは、きっと自分の表現をフローとして体現していくタイプの人だ。

 音楽は聴いたことがないけれど、ワタシャ無理かもしれん。

 Youtubeを聴いたがやはり無理なよう。

 「コントロール」が、この人が世の様々な事象に向き合うときの視点になっているのかな。

せめて椅子の背に

2017年10月17日 | 読書
 「茨城」は「イバラギではなくイバラキ」とよく言われる。この詩人の苗字である「茨木」は「イバラキではなくイバラギ」なのだ。と、どうでもいいこと(しかし当事者にとっては大切なことかもしれない)を思ってしまう。なんと言っても題名「倚りかからず」がいい。名詩「自分の感受性くらい」を連想させる。



2017読了103
 『倚りかからず』(茨木のり子  ちくま文庫)


 「」という漢字をふと眺めてしまう。「人偏」に「奇」である。奇は「めずらしい・あやしい」が一般的な意味であり、人の体が屈曲して、かたよっていることを意味している(大漢和)。人がそういう状態になって「ものによりかかる・もたれる」ことを「倚」と表したようだ。つまり、直立せず何かにもたれることだ。


 当然、物理的な姿だけではなく、精神的な在り様も示している訳で、詩人に「倚りかからず」と窘められれば、びくっとするのは私だけではないだろう。もちろん、ずっと倚りかからず生き抜ける人は稀だから、せめて「倚りかかる対象」が信じられるもの、まともなものを選びたい、と少しひ弱だが現実的なことを思う。


 表題作で「倚りかかりたくない」と著されたのは次の四つ。「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」「いかなる権威」…全て私たちが日常に向き合うこと。つまり、この詩は既に出来上がっている物事に疑問を持たずに身を任せない、強制し服従させようとする力に屈しないという宣言。直立する姿。


 では具体的にどうするか。「あのひとの棲む国」と題された作品の冒頭三行が、その心構えを語っているのではないか。「雪崩のような報道も ありきたりの統計も/鵜呑みにはしない/じぶんなりの調整が可能である」…せめて、椅子の背に倚りかかって、「じぶん」をしっかり見つめ、そこから「調整」を始めてみよう。

「わろてんか」二つ

2017年10月16日 | 雑記帳
 朝ドラの中身はまだ評価できないが、題名の「わろてんか」という言葉の響きはとてもいい。

 「わろう」は古語なんだと思い出した。
 ちなみに「てんか」は「婉曲な依頼」。
 標準語では「~てくれないか」、「てんか」を略さないで言うと「~てくれんか」ということだ。

 それはともかく、この頃の「わろてんか」二つ。



 先日、NHKローカルニュースの話題に、青森県鶴田町の「ツル多はげます会」のことが映った。
 地元の隣市にも「雄物川光頭会」という組織があり、結構似ていることをやっているなあという感じで見ていた。

 有りがちだが、頭に吸盤をつけて引っぱりあうイベント。
 若い?強豪が出てきて、その会の古参が放った言葉がこんなふうに聞こえた。

 「トウヒに火がつきました」

 えっ、「頭皮がついた」?


 実は「トウシ(闘志)」だったけれどネ

 …でも頭皮だったら凄いね。
 それで突然発毛するかもしれない。焼畑農業みたいにネ。



 先日読書メモした、パトリック・ハーランの新書の中に池上彰さんとの対談があった。

 終盤はコミュニケーションを高めるための「声かけ」が話題。

 池上さんが、最後に言いたいこととして「安易にがんばってくださいと言わない」を挙げ、他の言葉で励ますことを考えることが効果的と結んだ。

 それを受けたパックンの言葉は

 「では、とにかく違う表現を探して、なるべくがんばってくださいを言わないように、がんばってください。」

 上手い。つかえるオチだ。

その程度の「新書まつり」

2017年10月15日 | 読書
 「新書まつり~今年も100冊読破記念」と勝手に名づけて、盛り上がって…はいないが、ジャンルの違う三冊を続けたので、ミニ感想を残しておこう。新書であれば、当然ながら一つ二つ新しい見識に触れられれば御の字だ。正直、書きつけてしまえば逆に忘れてしまうような向きもあるが、それもまたその程度のことだ。



2017読了100
 『教育改革の9割が間違い』(諏訪哲二  ベスト新書)


 現場サイドからの教育評論として「諏訪」視点の鋭さは相当だと感じてきた。
 この新書は題名から想像する中味というより、学校教育の構造的な問題を「四つのちから」「行政のちから」「教師のちから」「民間のちから」「子どものちから」のせめぎ合いとして表現している。それが分かりやすかった。
 その見方で状況を分析することで、自分の立ち位置も教えてくれる。
 著者が作ったこの箴言に参ってしまった。
 「子どもに合わせなければ教育はできない。子どもに合わせると教育でなくなってしまう。


2017読了101
 『ツカむ!話術』(パトリック・ハーラン  角川新書)


 雑誌のインタビューが面白かったので手にした。
 「ハーバード大学卒業」であることは知らなかった。
 正直へええと思ったら、冒頭から結構そのフレーズが出てきて、アレッと感じる。実はそれが一つの「話術」のポイントでもあったのだ。
 「エトス」で信用させ、「パトス」で迫り、「ロゴス」で納得させる…そんな手順を明確に語ってくれていた。
 「話し方のスタイル」に注目するところが、今の政見放送を視聴するときに役立つと思った。
 次の三点のどれを強調するかが見どころになる。
 「誰のせいなのかスタイル」
 「何が大事なのかスタイル」
 「どうすればいいのかスタイル」



2017読了102
 『「うつ」と平常の境目』(吉竹弘行  青春出版社新書)


 かかりつけのお医者さんに睡眠導入剤をもらったことがあった。
 その薬の処方箋に書かれていた衝撃!の一文字「うつ」…と、まあ在りがちなのだが、それが頭にあったからか、思わずその題名に惹かれて読み始める。
 この著者のキャリアは「引きこもり、ときどきフリーターという経験を経て精神科医」だそうである。
 しかも39歳で医師になったというのだから驚く。
 例として書かれてある様々な「患者」のパターンが面白い。
 「うつ病」をめぐる現実とは…そういえばかつて同僚に振り回されたことを思い出した。
 ともあれ一番肝心なことは、次の三つの区分だ。

 「抑うつ気分」「うつ状態」「うつ病」…みんな病気になりたがる?

新米に卵おとして

2017年10月14日 | 雑記帳
 新米、食べましたか?新米を食べたとき結構多くの人が「ああ、日本に生まれてよかったあ」と思うのではないでしょうか。日本の技術、工夫…そのレベルの高さを十分に感じさせてくれる、いやそんなふうにひと時思い浸るべきだと思うのです。ふだん米飯を控えめにしている私が、こんな生意気を言うのも何ですが。


 もちろんそのまま食べても美味しいのが新米。初めに何をおかずにするか、考える人も多いことでしょう。「たらこ」「漬け物」「海苔」「納豆」「ボダッコ」…まだまだ考えられます。「生卵」派はどのくらいいるでしょうか。結構、多いはずです。白米と卵のバランスは絶妙です。まずはシンプルに卵をそのまま落として…。



 ふと思い出したのが、かつて雑誌『サライ』が「卵かけごはん」を特集したときのこと。そう言えば、このブログにも書いたはずと検索してみたら、ありました。ありました。まだ「羽後の食べびと」を公称(笑)していない頃でしたが、それっぽいリポートです。次の三つを実際に試したようです。再録してみましょう。

 「卵かけご飯を語ろう」

①最初に白身だけを熱々のご飯に落としかき混ぜる。泡に包まれた状態になったご飯に黄身を乗せ、醤油を垂らしながら食していく

②卵をかける前にご飯に醤油を回し、よくかき混ぜる。その上から溶いた卵をかけ、あまり混ぜずに食べる。

③溶き卵をご飯に絡めて蒸らす。昆布や鰹節の出汁と醤油を混ぜてかけ汁を作り、茶碗に盛ったご飯に海苔、ネギなどの薬味とともにお好みでかけて食べる



 新米が新米らしさを保っている間に、もう一度挑戦してみます。「バンザイ!新米」「バンザイ!秋田こまち」…あっ、嘘を。この米は「新潟岩船産コシヒカリ」でした。地元愛に欠ける行為をしてしまい、申し訳ないです。しかし、申し訳ないくらいに美味しいです。きっと「秋田こまち」は、もっと美味しいはずです(笑)

カタリ~教師の味方②

2017年10月13日 | 読書
 選挙は「カタられてもいい人」に入れよう。もちろん「騙ろう」として「語る」人はいないと全員の候補者を信じたい。しかしそう甘くないこともまた事実。となると「嘘をつかない・愚痴らない・見栄をはらない」という「ヤクザの条件(by浅田次郎「プリズンホテル」)が基準になるか。まさに内田教授のような人だ。



 再び『待場の教育論』(内田 樹  ミシマ社)より

 昨日書いたことだけでは、多くの教師は「安心」できないかもしれない。
 さらにカタリの真骨頂的な部分を拾ってみると、実に味わい深い。

 「よい教師」が「正しい教育法」で教育すれば、子どもたちはどんどん成熟するという考え方が、人間としての理解として浅すぎる。


 また、ひどく現実的な場面で教師自身が悩まず納得できる「励まし」もある。

 先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてききわめて切実である。それでいいのです。教師の言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。(略)半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。


 結構カタっているように見える。しかし実はこうした教師の所作がそのように機能するために、下に引用した大事な条件がある。一見よく言われる文章のように思えるが、上に挙げた「不完全感」も含めて読み取れば、素直に納得できるのではないか。


 「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人しか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。



 ほかに「いじめ」「国語教育」「宗教教育」などについての論述が続く。9年前と同じか、いやそれ以上に深く首肯できる文章が多かった。教育は10年スパンで考えることが、一定の成果、結果が出る最低ラインかもしれないので。現実はあまり変化していない証拠か。さて、この箇所は今回再読してとても気になった。

 これから育つ子どもたちはさまざまなかたちの宗教、あるいは疑似宗教、あるいは「宗教に見えないように偽装した宗教」にさらされることになるでしょう。その中で、子どもたちが適切な霊的成熟を遂げるためには、「無菌室で育てる」わけにはゆきません。


 何が該当するのか確信をもてないでいるが、メディアを通じて流れ込んでいる莫大な情報の中に、きっと存在する多くの事物がある。そう言えばAKB48を宗教に喩えた論者もいたなあ。日常生活に入り込み、知らず知らずのうちに巻き込まれている感覚があるものは、「宗教化」を疑ってみる必要があるのかもしれない。

カタリ~教師の味方①

2017年10月12日 | 読書
 内田樹は「カタリ」の名人だなと思う。カタリとは「語り」でありそして「騙り」である。騙りは良い意味では使われないが、氏にはダマされてもいいような気分にさせられる。誰かが「政治家にふさわしい人」と評したが、まさにそういう魅力がある。少なくとも「語り」が万全でなければ騙ることなどできない。



2017読了99
 『待場の教育論』(内田 樹  ミシマ社)


 昨春に8割の本を片付けた。依然として並ぶ背表紙で一番多いのは「ウチダ本」だ。教育論も数々あるが、なんとなく手に取ってみたくなり再読する。9年前の発刊、書かれてから約10年。おそらくこの本から汲み取ったことは自分の歩く杖になったはずだ。ただうまく使えたか自信はない。それを問うような気持ちだ。


 ちょっと驚いたのは装幀が「クラフト・エヴィング商會」だったこと。吉田篤弘の小説を読み始めているので、やはりどこか惹かれ合うのだろう。さて、著者が目指したことは「学校の先生たちが元気になるような本」。この本はベストセラーになったし、元気をもらった教師も少なくないはずだ。また、そう願っている。


 直接的に励ましてくれる多くの文章は、今読んでも小気味いい。

 私たちの国の教育に求められているのは「コスト削減」や「組織の硬直化」ではありません。現場の教員たちの教育的パフォーマンスを向上させ、オーバーアチーブを可能にすることです。それに必要なのは、現場の教師たちのために「つねに創意に開かれた、働きやすい環境」を整備することに尽くされる


 さらに、多くの教員たちが腹の中で思っても、なかなか発せられない言葉も代弁してくれているようだ。

 私が教師として現場にいた過去三十年間に限って言えば、文科省の行政指導の中に「教師に自信を与え、勇気づけ、自尊感情をもたらす」ことを目的として立案された政策は一つもありませんでした。


 この点について様々な原因や理由を指摘することは容易だ。しかし結局のところ「教育とは何か」「学びとは何か」という問いに向かう姿勢こそ根本で問われる。「『今ここにあるもの』とは違うものに繋がること」という教育の重要な機能を理解し、「『教えるものと学ぶもの』の出会い」に関していかに共感できるかだ。


 この二つに関して、政治家や行政に携わる者が、歴史上の「教師」「学校」という存在の意義を的確に把握しない限り、また現代社会が求める「ここ」に合わせようとする子どもをつくろうとする限り、噛み合わない現実は続いていく。例えば「キャリア教育」に代表される高波がもたらしている浸食は、かなり重症だ。