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たべびと異聞

2017年10月30日 | 雑記帳
 隣市のホテルで研修後に懇親会。最近はそんなに頻繁に利用してはいないが、円卓の目の前には定番のA社のSビールではなく、K社のビールが一本置かれた。私の作法(笑)に合わせてくれて嬉しい。「親の遺言なのもので…」とテキトーに話し注いでもらっていたら、隣り合わせた方が少し変わったことを言い始めた。


(UGO 2017.10.26④)

 「何を食べても美味しいと思ったことがない。こういう味だなと思うだけだ。」Oさんは、種々のオードブルにも手を出さずに、枝豆を数個取っただけで、ビールを飲んでいる。「えっ、じゃあ例えば、今の時期なら新米を食べても旨いなあと感じないんですか」と問うと、「新米は新米、古米は古米の味がするだけだ」と仰る。


 重ねて「これは苦手だと思う食べ物はないんですか」と問うてみた。「ない」と言い切る。食べたり飲んだりしているわけだから、食欲そのものはあるし、味覚異常ということでもないらしい。「女房にも張り合いがないといつも言われる」…そりゃそうだ。味の評価をしないのは、皿にのるまでの一連の作り手を無視することだ。


 想像すれば、ただ食べて食欲を満たすことで精一杯になって、味がどうこう感じない大昔もあったろう。また食事に対して美味い不味いを口にすることがためらわれた身分や暮らしもあったはずだ。しかし人間の味覚は「快」を求めて、食物、料理は多様に広がっていった。食文化は、いわば評価の連続で成熟してきた。


 「何でも食べられるのが『生きる力』の一つ」と自覚しつつ、美味を感じないのは傍から見たら不幸としか思えない。「口福」に恵まれないことだ。ただ、先日開店した某ラーメン店に行き、出てきた品の不味さに腹を立てたことを考えれば、心安らかな生活のためにはそれもありか、とふと思う。いや、やはり無理だ。