すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

カタリ~教師の味方②

2017年10月13日 | 読書
 選挙は「カタられてもいい人」に入れよう。もちろん「騙ろう」として「語る」人はいないと全員の候補者を信じたい。しかしそう甘くないこともまた事実。となると「嘘をつかない・愚痴らない・見栄をはらない」という「ヤクザの条件(by浅田次郎「プリズンホテル」)が基準になるか。まさに内田教授のような人だ。



 再び『待場の教育論』(内田 樹  ミシマ社)より

 昨日書いたことだけでは、多くの教師は「安心」できないかもしれない。
 さらにカタリの真骨頂的な部分を拾ってみると、実に味わい深い。

 「よい教師」が「正しい教育法」で教育すれば、子どもたちはどんどん成熟するという考え方が、人間としての理解として浅すぎる。


 また、ひどく現実的な場面で教師自身が悩まず納得できる「励まし」もある。

 先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてききわめて切実である。それでいいのです。教師の言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。(略)半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。


 結構カタっているように見える。しかし実はこうした教師の所作がそのように機能するために、下に引用した大事な条件がある。一見よく言われる文章のように思えるが、上に挙げた「不完全感」も含めて読み取れば、素直に納得できるのではないか。


 「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人しか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。



 ほかに「いじめ」「国語教育」「宗教教育」などについての論述が続く。9年前と同じか、いやそれ以上に深く首肯できる文章が多かった。教育は10年スパンで考えることが、一定の成果、結果が出る最低ラインかもしれないので。現実はあまり変化していない証拠か。さて、この箇所は今回再読してとても気になった。

 これから育つ子どもたちはさまざまなかたちの宗教、あるいは疑似宗教、あるいは「宗教に見えないように偽装した宗教」にさらされることになるでしょう。その中で、子どもたちが適切な霊的成熟を遂げるためには、「無菌室で育てる」わけにはゆきません。


 何が該当するのか確信をもてないでいるが、メディアを通じて流れ込んでいる莫大な情報の中に、きっと存在する多くの事物がある。そう言えばAKB48を宗教に喩えた論者もいたなあ。日常生活に入り込み、知らず知らずのうちに巻き込まれている感覚があるものは、「宗教化」を疑ってみる必要があるのかもしれない。