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道徳はみ出し者の戯言

2008年11月29日 | 雑記帳
 どうも喉に引っかかった魚の小骨のように、つい思いだしてしまう。
 先日も書いた、道徳の授業研究会のことである。

 ある教師がこんなふうに言う。
「教師がしゃべり過ぎる」
 まあ、そうだったのだろう。
 参観者の発言からその内容を想像するに、だらだらとした説明であったり、お世話やきの助言だったりしたのだと思う。
 では、教師はしゃべらなければ「いい授業」なのか。
 一概には言えないが、できるだけ子どもの発言する機会が増えるように整理して、その話し合いの中で自分たちが変容していくことが理想の授業に近い…というのが妥当なところか。
 しかし正直、道徳は一時期の「読み物資料」至上主義からほんの少し抜け出した感があるようだが、授業観そのものはあまり大きな変化がないのでは、と感じてしまう。

 何かつまらない括り方をして、自分の苦手さを正当化しているような気もするのだが。
 自分の本音は…

 教師は価値についてもっとしゃべっていい。
 わからなくなったら、黙ってしまっていい。
 腑抜けの発言に突っ込んでみてもいい。

 こういう青臭い考えは単なる素人か、と道徳はみ出し者は時々そう思うが、自分はここにいるという姿を見せないで、発言を操るような構えで子どもの何が育つのだろう。

 その日参観した授業では、真摯に考えていた子も多くいたが、積極的に発言する生徒の中には明らかに教師の意図に迎合していくように感じさせる子もいて、痛々しい気がした。
 もっと多様な素材、過程、形態があれば、教師の自由度、本気度もコントロールできるのではないか、とそんなことも考える。

 道徳に関しては限定された時間枠からはみ出していく自分の思考がどうにも止まらない。