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桜と絵本と豆乳と

誕生日を祝うという病

2008年11月09日 | 読書
 誕生日が嬉しいとは言えなくなってからかなり経っているが、時々「何歳だっけ」とほんの少し時間が必要になってきたことも確かだ。痴呆に近づいている…そんなことではなくて、誕生日にあまり意味を見い出せなくなっているのかもしれない。それよりは年を越すときに、しみじみと寄る年波を感じたりするわけで…。

『落語の国からのぞいてみれば』(堀井憲一郎著 講談社現代新書)を読んだ。

 この新書は講談社のPR誌『本』に連載されている文章をまとめたもので、時々に目にしていた。半分ぐらいはすでに目を通していた。しかし改めて読んでもなかなか考えさせられることが多い。

 第一章の「数え年のほうがわかりやすい」は実に面白い。
 「数え年」という感覚は実際あまり馴染まないが、学齢をもとにした全体的な数え方には慣れてきている。自分が何歳になったかというより、何歳になる年という考え方をしているようだ。もっとも3月生まれなので、同い年の友人には「俺はまだ若い」などと軽口をきくことはあるのだが。

 少し想像力を発揮すればわかることだが、昔の日本には庶民の誕生日の祝いなどなかったという。1950年に「年齢のとなえ方に関する法律」ができてから、お誕生祝いなるものが広まったのではないかと記している。まさに高度成長期を間近に控えた時代、様々な動きと符合してくるように思う。

 学級担任をしていた頃、受け持っている子どもの誕生日は気にしていたし、イベント風のことをやった経験がある。全校で毎月「誕生集会」なる実施していた学校に勤めたこともある。誕生日を祝うことは子どもを大事にする印であることを疑いもしなかった。現に昨年だって月ごとの簡単な誕生日カレンダーを作って掲示していたほどだ。
 しかしそのこと自体は間違いとは言えないにしろ、一方では単なる風潮に染まっている、経済に踊らされているという見方もできるだろう。
 満年齢重視、ハッピーバースディ思考(こんな造語はないだろうが)は、実は大きな影も抱えているようなことに今さらながら納得させられる文章がある。

 満年齢思考の背後には「まず個人が存在する」という思想がある。それは“キャラクターを持たなければいけないという病”と連動してしまっている。

 その「病」のことをつくづく考えさせられる内容は、まだ他にもあった。