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構えは二者択一ではない

2008年11月24日 | 雑記帳
 道徳の授業研究会での話題である。

 授業者は、資料本文や要約文などを黒板に貼りつけ、ほとんど板書なしで授業をした。それは板書することで生徒から目が離れ集中が途切れることを避けたかったという意図だったようだ。
 同僚の先生もその考えに同調し、この手法をとったから話し合っている生徒たちの一体感が出ただろうと感想を述べた。
 一方参観者からは、それにしても流れを押さえる板書は必要だろう、主人公の心情の葛藤が見えることが大切だ、といった意見が出た。
 助言者からも生徒に背を向けずにという授業者の意図はわかるが、板書の重要性は大きいということが強調されたように思う。

 二者択一的な傾向になっていることが気になった。
 道徳の授業づくりに関しては自信がないので(というより、自分がはみ出した考えを持っているのだと思う)、その観点からではなく、板書と子どもたちの集中ということを考えていたら、ある一つの言葉が頭に浮かんだ。

 四分六の構え

 故大西忠治氏の言葉である。
 黒板に体を向けきってしまわず、四分だけ黒板を向き、六分を子どもの方へ体を開くということを示している。
 結構難しい技術であり、練習も必要になる。
 これは授業が子どもの考え、思いをつなぐものであり、そのために教師は何をなすべきかという原点のところで多くの教師によって行動化されたものだと思う。

 これを協議会の場で持ち出すことが有意義とは言えないかもしれない。しかしこの授業研究をもとに改善策を考えようとしたとき、構えについて思考を巡らせ毎日の授業の中で意識的にやってみようという教師はどれほどいるだろうか…。
 いや、たぶんそれがわかっている人は既にやっていることだろう。

 ぎりぎり必要なことを煮詰めて授業を考えている人は、自分の動きに敏感なものである。