すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あがきのようなあとがき

2008年11月21日 | 雑記帳
 昨夜、一つの「あとがき」を書いた。
 まるで「あがき」のようなあとがき。
 一人で、だらしねえなと苦笑しながらつらつらと…。
 以下に。

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 とんだ結末になった。

 この集約の構想を立てたのは夏だった。全ては自宅のPCネットのプロバイダー変更を決意し、実行させたことから始まっている。
 ホームページにアップしたものだから、簡単にできるはずとたかを括ったのがそもそもの間違い。
 さらにブログを二つ抱えていて、そのうちの一つもサイトが無くなったものだから、これもついでに少しは残しておきたいなあ、などと目論んだのがまったく駄目。

 えっ、こんなにあったの…とため息をつくことになる。しかしどうしたわけか、いったん始めると最終まで行きたくなる性分ゆえ、休み休みながらも原稿整理に取り掛かっていた。これが9月から10月初めの頃。
 どうやら整理はついたが、どうにも量が多い。これは2冊分としてやってみようと思い、ほぼ目次も完成させ、ページ打ちの九割かた出来てから…。

 11月、知っているところで印刷を始めたら、とたんに負担を感ずるようになってきた。
 2冊合わせて250ページを越えてしまう、時間はかかるし、第一こんな文章誰が興味をもつかしらん…などと逡巡し、決意の60%削減である。当然1冊にする。労働力半減。ああ楽ちん…じゃあなんで始めた?

 なんとも情けない顛末である。

 ともあれ、私にとっては8年ぶりの紙面集約である。
 その間にずいぶんと学校現場は変わった。取り巻く環境も変わっている。書いたこと自体、懐かしく思えてくる内容もあるほどだ。
 確かにそこにいた自分が、なんだか遠い別人であるように思える時もある。もしそうだとしたらその理由をどこに求めるか。それは仕方ないことなのか、悲しいことなのか、いや喜んでもいいのではないのか…様々な思いが巡る。

 「すべてはフローという覚悟」とこの夏にブログに書いた。谷川俊太郎のインタビュー記事を読んでいて思ったことである。
 「流されはしない」と大言できるほどの力量も覚悟もない自分であれば、せめて流される自分の位置と顔ぐらいはしっかりと心に留めておきたいものだ。

 もの覚えが悪いので、そのことを書いています。そのために溜めておきます。時々、見直します。
 つまりは、そういうことです。 2008 初冬
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