読書の記録

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偶然の科学

2018年08月31日 | 社会学・現代文化
偶然の科学
著:ダンカン・ワッツ 訳:青木創
早川書房
 
 「社会」を「人の営みの集合体」ととらえ、そこになんらかの法則性とか規則性を見出す。これが社会科学である。
 たとえばデマや暴動はどうやって起こってひろがっていくのか、とか、モノや価値観はどのように普及してくのか、とか。
 で、これは政治やビジネスに適用される。世論の形成とか、マーケティングとか。使える事例は「法則」化が試みられ、理論化されたり、MBAでケーススタディになったり、ビジネス本として啓発されたりする。非常によくある話である。
 
 そんなところに冷や水を浴びせるのが本書である。
 社会にはそんな法則性を要するようなメカニズムなんてない。社会というのは物理法則なんかと違って、どこにも収れんしない無目的なものであり、ひとつひとつの現象事例は多数の偶然と運の積み重なりで出てきたもので、それを物理学のように何か法則性とか目的性があるかのように見立てることができると思い込んでいたのは、ひとえに我々が稚拙な科学技術で観測してそれを常識と信じ込んでいたにすぎない、とまで言っている。ミもフタもないとはこのことだ。
 したがって、よくよくつきつめてみると実は根拠があいまいになる社会現象というのはけっこう多い。本書の指摘として再三例にあげているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。あの絵はなぜ世紀の大傑作と社会にみなされるのか。ロジックを積み重ねた結果、けっきょく「大傑作だと思うから大傑作なのだ」というトートロジーに陥ることを著者は看破している。
 同様に、なぜAppleは成功したのか。それは、成功したから成功したのだ。に最後はいきつく。つまり、本当の意味ではモナ・リザもAppleも再現可能性がない(再現可能性を証明できないという言い方が正しい)。我々は美術学でモナ・リザを、経営学でAppleを学ぶが、では新たにモナ・リザやAppleのような作品や企業を再現できるかというと、できないのである。
 まして、この社会におこるという現象というもの。過去がそうだったから未来もそうなるはずだなんて保障はどこにもない、と看破している。マーケティングの全否定である。
 
 でもまあ、そうなんだろうとは思う。同じことを2回やっておなじような結果ができれば科学だが、人間社会の営みは原則として不可逆で一回きりのものであって「もし違う選択肢だったら」を完全に検証することはできない。まったく環境要因が同じということはありえないし、この世の中は何かの予定調和にむかっているわけでも公平性が約束されているわけでもない。ここらへんはもはや哲学的な問いである。
 
 とはいえ、元来は不定形で無目的な社会のダイナミズムというものを、あたかも法則性や因果律があるかのように「信じる」ことでこの人間社会に秩序を保つ、つまり平和と安寧と幸福を維持するのが人間の「知恵」という言い方もできようか。「サピエンス全史」にそのようなことが書いてあったような気もする。この社会には法則があるとみなが信じることで社会関係は保たれる。われわれが「常識」とみなすものの正体はこれかもしれないし、これが転じて「宗教」というものがあるのかもしれない。
 また、本書でも指摘があるが、人間の頭脳にとって「物語」というコードは非常に共感がしやすい。大脳小脳に沁みこみやすいともで言おうか。ある社会現象に「物語」つまり「因果関係の連鎖がうまくつながっていること」が示されると、それを「世の中」として解釈する認知メカニズムが人間にはある。つまり我々は「物語」としてこの社会を、この世の中を認識するのだ。たいていの宗教には物語が付随している。
 
 いっぽうで、そういう不確定性があるからこそ、人生にはモチベーションや楽観主義や恋愛や創意工夫というものがある気もする(不確定性を快感に転じる脳内物質が人間には備わっている)。セレンディピティとかチャンスオペレーションとかブリコラージュの価値というのはそこにある。不確定性こそが社会という言い方もできよう。本書は最近のビッグデータ解析の登場で、かつてよりは精度が増し(それでも不確定性はいずれにしても残るが)、科学的態度を捨てたニヒリズムに陥る必要はないようなことも本書の最後に示しているが、未来を測る精度が増した世界は本当に幸福な世界かというとそれもまた違うのかもしれない。
 
 

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