読書の記録

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天皇と東大 Ⅰ・Ⅱ

2013年01月16日 | 歴史・考古学

天皇と東大 Ⅰ・Ⅱ

立花隆

 明治維新前後からの近代日本の歩みを、東大という定点から俯瞰する試み。文庫本で全4巻であるが、とりあえずⅠとⅡまで読んだ。時代にして5.15事件あたりまでである。

 なるほど納得するに、東大史とはそのまま日本近代史なのである。
 本書ではとくに「右翼の歴史を中心にする」とあるが、随所でこれに対する左翼的イデオロギーの流れや重要人物にも触れていて、右も左もそのことごとくに東大の息がかかっていることに驚く。それは学生だったり教授だったりするのだが、右ならば戸水寛人、上杉慎吉、大川周明、安岡正篤、岸信介、平沼騏一郎、四元義隆、左ならば吉野作造、森戸辰男、河上肇(京大教授として有名だが、出身は東京帝大)、赤松克麿、田中清玄、宮本顕治など。また、学生や教授だけでなく、右の北一輝から左の堺利彦まで、彼ら自身が東大卒や東大教授でなくても、血気盛んな東大の学生に大きな薫陶を与え、その後に影響を及ぼした例も多い。
 つまり、当時の頭脳集団は官僚も高級軍人も学者も東大しかいなかったということである。(もちろん厳密には京大や早慶もいるのだけれど、中長期的に見渡せば圧倒的に東大関係者が多い)。

 そうなってしまうわけは、要するに、東大すなわち帝国大学が日本の行政を考える官僚の養成所としての性格を目的に設立されたという出発点にある。
 つまり、国をなんとかしたいと思う人々が濃縮培養されていく環境なのである。右も左も、日本をなんとかしなければならないという熱意という点では同じだったのである。

 今日なおこのDNAは色濃く存在している。
 霞が関のキャリア連中の大半は東大出である。たしかに彼らはものすごい仕事ができる。大量の情報を短い時間に処理していくスキルは尋常ではない。脳神経の回路がそもそも違うのではないかと思ってしまう人が何人もいる。
 一方で、想像力はびっくりするほどステレオタイプで、演繹的というか枠組型の発想の傾向が強い、というのが個人的感想だが、よく言われるノーベル賞は東大ではなくて京大から出る、というのは、ここらへんとも関係あるのかもしれない。
 とにかく、日本を動かしてやるという野心と、そのための圧倒的情報処理能力、そして人脈ネットワークが東大という磁場にはある。

 
 だから、昭和の様々なクーデター未遂やテロリズムをみると、本当の意味でたたきあげの人が下剋上で世の中をひっくりかえすというのはやっぱりなかなか難しいのだな、と思う。
 かつての日本共産党が革命のためには暴力も辞さず、と掲げていたり、革命を唱えた極左極右の暴動やテロリズムは戦前だけでなく戦後の日本近代史にもあるわけだが、歴史的に後から見れば国家体制はびくともしなかったといってよい。
 国を変えたいなら、あるいは転覆させたいなら、東大にいくしかないのである。(余談だが自作自演ハルマゲドンをねらったオウム真理教の幹部にも東大生が何人もいた)

 逆に言えば、良くも悪くも国の舵を変えてきたのは東大ということになる。
 大日本帝国を元老政治にしてしまったのも、国粋主義に染まった国体にしてしまったのも、一億総玉砕の気運にしてしまったのも、戦後の日本国憲法を受け入れてしまったのも、55年体制という枠組をつくってしまったのも、原発を戦後のエネルギーインフラとして推進したのも、プラザ合意で世界に円経済をつくりあげたのも、2001年の中央省庁再編(内閣府の強化)も、これらはみんな官僚の仕事である。政治家ではない。政治家は単なる表看板みたいなものであって、仕組みをつくったのは官僚であり、その官僚とは東大から輩出されてきているのである。
 畢竟、国をひっくり返したいなら、東大にいって、そこから高級官僚になるしかない。

 安倍首相が改憲を主張しても、橋下市長がアジっても、官僚が動いてくれなければ国の枠組みは変わらない。どれだけ国民が熱狂しても官僚を動かす力学はまったく別のところにあるのは、民主党政権発足時の鳩山首相があれだけの国民的支持の追い風の中でけっきょくなんにもできなかったことが証明している。
 逆に、1999年の平成の大合併、2001年の中央省庁再編、2009年の裁判員制度など、とくに一般国民の間になんの意志もなかったものがなし崩し的に決まっていったのも、これみんな図面をひいたのは官僚である。

 明治維新この方、おおむね日本はこうなのである。現代にあっても本質的なところは変わっていない。
 

 なお、本書の通しタイトルは「東大と天皇」で、万世一系の天皇を頂点とする大家族主義を「国体」と掲げた大日本帝国の歩みをみている。
 果たして当時の右翼系官僚や高級軍人は、本心としてどこまで「天皇」を、もっというと「国体」を信じていたのかは興味深い。心底、日本と言う国は古事記の通りの成り立ちをもつと信じていたのか、それとも統帥権独立の方便でしかなかったのか。
 そこらへんは(3)(4)を経て考えてみたい。(ちなみに、イザヤ・ベンダサン、つまり山本七平は、当時の庶民は、本当に天皇を神様として奉っていたかというと必ずしもそうではなくて、ありゃ人間だと思いつつ、神としても見る、という、日本人でしかできないダブルスタンダードを平常心で行ったと評している)。



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