読書の記録

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野の医者は笑う 心の治療とは何か?

2019年04月02日 | 哲学・宗教・思想

野の医者は笑う 心の治療とは何か?

東畑 開人
誠信書房

 

 力作であり怪作でもあり、そしてちょっとした感動作でもある。初版は2015年。マイナー出版社のハードカバーだからそれほど話題にあがらなかったかもしれないが、新書で出せば「バッタを倒しにアフリカへ」くらいにはなったかもしれない。

 

 「野の医者」というのは、ヒーラーとかセラピストとかスピリチュアルカウンセラーとか呼ばれる人たちだ。広い意味では占い師とかまじない師なんかも含まれる。

 彼らの仕事は悩める人の心の病を取り除き、心の健康を誘うことである。

 こういう「心の治療」の分野では、公式には「臨床心理」というアカデミズムな医学があり、「臨床心理士」という肩書を持つ人々が存在する。臨床心理士は「公益財団法人日本臨床心理士資格認定協会」が実施する試験にパスしなければならない。実はこの資格さえも民間資格であって「国家」資格ではない。長いこと臨床心理方面は国家資格から遠ざけられていた歴史がある。去年になってようやく新たな国家資格「公認心理師」というものが誕生した。

 著者の言う「野の医者」のほとんどは、こういった公的に通用するような資格を持ち得ていない。いくつかの例外はあるものの、多くは在野で勘と経験と試行錯誤でヒーラーやセラピストを名乗っている。つまり、系統だったアカデミズムでの臨床心理を学んでいない自己流の治療者である。

 とはいうものの、彼らは100%自己流かというとそういうわけではなく、ある程度成功した「野の医者」のスクールに通ってその人から資格をもらう。流派といってもよいかもしれない。

 我が日本では、沖縄にこの類の人が多い。いや、本当は日本全国にいるのだが、人口密度的に、あるいは狭いところに様々なタイプの「野の医者」が混在しているという点で、沖縄は典型である。

 なぜ沖縄に多いのか? という疑問も含めて、著者は沖縄の「野の医者」フィールドワークを行う。このルポ(お笑い要素を多分に含む)もなかなか面白いのだが、著者はルポライターでもノンフィクション作家でもない。著者は「臨床心理士」なのである。

 つまり、アカデミズムばりばりの臨床心理士が「野の医者」の世界に五体投地で飛び込んでいったのが本書である。

 かといって、この本は、決してアカデミズムの観点から「野の医者」のインチキを暴いていくというものでも、彼らと徹底議論して論破していくものでもない。野の医者の世界を見聞し、体験し、あまつさえ治療されることで「心の治療とは何か?」という問いに自問自答していく。つまり、臨床心理士として行ってきた「心の治療」に、野の医者の世界による「心の治療」の在り方を通じてアウフヘーベンしていくのだ。ここは圧巻である。

 

 野の医者にはいくつかポイントがある。

 ・野の医者本人がつらい人生を送っていて心が傷ついた過去を持っていることが多い
 ・治療方法そのものはチープである(治療者が身辺でたまたま会得したものの「ブリコラージュ」されたもの)
 ・ほとんどの野の医者はそれだけでは生計が立てられないで、副業をしながらやっている
 ・非常にテンションが高い(本書のタイトル通りによく笑う) 
 ・大振りなパフォーマンス、たたみかけるレトリック
 ・ここが肝心なところだが、実際に治癒する患者がわりといる

 この5つはもちろん因果が関連している。詳しくは本書をたどりたい。読めば納得が高い。

 著者はこういった「野の医者」の特徴を追い求めながら、一方で自らの立脚点である臨床心理学に疑問を感じる。それは、単に「野の医者」にほだされたからいうことではなく、「野の医者」に欠点があるならば、「臨床心理」にも欠点があることに思い至り、「心の治療」すべての足元が心もとなくなっていく。なぜ臨床心理士は、「野の医者」のように心に傷を負っていない人が多いのか。治療がいちいち長期間で体系的なのか。専門家として生業が成立しているのか。そして、笑わないのか。で、こちらはこちらで実際に治癒する患者がいるのはなぜか。

 

 著者は、多いに彷徨した末に、やがて、「野の医者」の問題と限界がどこにあるかを看破する。そして、筆者が立脚していた「臨床心理」が、矛盾を抱えながらも、アカデミズムとして何を大義としてきたかを知る。

 この著者の心のプロセスそのものがユングっぽいような気もするが、最後のエピソードはなかなか感動的である。

 

 ところで僕は本書を読みながら親鸞と浄土真宗を連想していた。僕は特定の宗教にコミットしているわけでもスピリチュアル愛好家でもないからいずれにしても遠巻き感覚なんだけれど、なんか共通点があるなという感想を持った。

 親鸞の教えを書き留めたとされる「歎異抄」によれば、親鸞が言うところの教えとは「とにもかくにも南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀様にすがることがお救いになる、誰もかれも念仏を唱えれば浄土に行ける、これが阿弥陀様の本願である」というものだ。

 この思想の境地にはいくつかの宗教的革命、あるいは思考の転回があるとされているが、親鸞やその師の法然、あるいは歎異抄を記したとされる唯円は、当時にあってはおそらく「野の医者」だったのだと思う。果たして親鸞が良く笑うテンションの高い人間だったのかどうかはわからないが、まあ苦労人ではあっただろうし、生計が立てられてたとも思えないし、なによりも「念仏さえ唱えればいい」というのは当時にあってチープ以外の何物でもないだろう。さにありながら、これだけ信者の数を増やしたというのは、「治癒」を自覚した患者ならぬ信者がたくさんいたということなのだろう。

 重要なポイントは「野の医者」の世界も、「歎異抄」の世界も、「治療者とクライエントの信頼関係」であり、「敷居の低い道具立てやパフォーマンス」であり、「治療者によるレトリックを駆使した救済ストーリー」だ。つまりどこまでも閉じた主観的な世界。でもその閉じた世界の中で悩みは解決される。これこそまさにポストモダンであり、その世界においてクライエントは「治癒」できる。法然も親鸞も当時にあってポストモダンだったんだろうな。


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