読書の記録

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寛容論

2020年08月15日 | 哲学・宗教・思想
寛容論

ヴォルテール 訳:斉藤悦則
光文社
 
 以前から岩波文庫版として存在を知っていたものの文章がとにかく硬便なのでとっつきにくく、書店立ち読みで数ページ眺めてみて諦めていた。そしたら光文社古典新訳文庫でも出ていたことに今さら気づき、こちらを手にとってみた次第である。さすがは光文社古典文庫。価格は岩波より張るが読みやすい。
 とはいえ、初読の際はなんとなく中世時代ならではの宗教的世界観というか、さすがに隔世の感ありすぎというか、いくらなんでも著者はローマに肩入れしすぎなんじゃないのか、とかやや興ざめなことも思いながら読み進める具合であった。
 しかし、この本はあとからじわじわくる。読み終わってしばし反芻したり、あるいはなんとなく傍線を引いてみたところを改めて読み直したり、またぱらぱらと気になった章を拾い読みしている間に、だんだんと普遍的な真理を思うようになった次第である。己をかえりみて反省しまくりである。こういうのを名著というのだろう。
 
 17世紀のフランスで書かれた「寛容論」は、狭義的にはキリスト教(カトリック)の閉鎖的・狂信的な集団が起こした宗教裁判めいた冤罪事件に端を発し、宗教が持つ「不寛容」を戒めたものである。厳密に言うと「宗教」が不寛容なのではなく、「人」が不寛容の方便としてしてその宗教を使っている、というのがヴォルテールの主張である。自らの不寛容の根拠として教義を都合よく曲解したり、自らの意図に添うように切り貼りしたりする、という指摘である。
 当時の宗教観は現代とはくらべものにはならないほどに日々の生活をしばったことだろう。ここには宗教裁判や宗教弾圧、迷信や教条に支配される当時の生活者が描かれている。それだけに現代からみればそんな暗黒な時代もあったのねとわりと他人事のように読めてもしまうのだが、人はどんなときに「不寛容」になるかという観点から読んでみればこれは現代でも全く通用する普遍性を発揮する。
 つまり、中世的な宗教に限らず「人を不寛容にするものは何か」ということである。
 
 結論からいうとそれは「観念」である。
 “こうであるに違いない””これが正しいはずだ””これが常識である”と思うもの。これは宗教も倫理も道徳も規範もすべてあてはまる。そしてこれが不寛容の引き金になる。「これが正しい」「これが常識」というのはあくまで主観的なものであって、物理の方程式のように絶対的根拠をもとに証明させることはほぼ不可能である。時代や場所や文脈によって「こうである」も「正しい」も変わる。つまり、これらは特定の利害集団のあいだでの「決めごと」に過ぎない。これらは「観念」、易しい言い方をすると「こうと決めた」ということなのである。
 そして「観念」は不寛容と隣り合わせなのだ。“自分が正しいと思うもの”が多ければ多いほど、その人は不寛容になっていく。
 
 たとえば、いまネットをバズらせているものに、とある男性が、GoToキャンペーンの恩恵で普段は行かないような高級旅館に宿泊したところ、食べきれないほどの食事が出て「破棄前提で大量の食事を出すのはいかがなものか」ということを料理の写真とともにSNSに投稿したものがある。
 これに対し、賛否両論があってちょっとした炎上状態となった(もちろん大多数のユーザーは静観しているわけだが)。今回はこの事例を題材にしてみる。最近のネットへの挑発的を投稿と、それに対しての無遠慮な反論の典型をみた思いがするからだ。
 
 この男性にはいくつかの「観念」がある。
 ・「食べきれないほどの量を出すのはけしからん」
 ・「食べきれないということは、残った分は破棄される」
 ・「この量は『食べきれない量』である」
 ・「破棄前提で大量の食事を出してくる」
 ・「旅館の食事というのは食べきれる量が出てくるもののはず」
 ・「自分がけしからんと思ったものはネットに投稿して良い」などなど。
 
 ひとつひとつは、彼にとって正義的な観念だったのだろうが、結果的に不寛容の見本のようになった。したがって、以下のような反論があがった。
 ・「食べきれない量を出すのは歓待のあらわれ(そういう地域や国は意外と多い)」
 ・「残ったものは従業員の賄いにもなる」
 ・「この量を食べきれる人は少なからずいる」
 ・「小食なので食事は少な目にお願いします、と事前にいうのはアリである」
 ・「大量に食事を出す旅館というのはひとつのスタンダード」
 ・「気に入らないからといっていちいちネットに挙げるのは人としてどうよ」
 
 もちろん、これらの反論に対しての再反論は可能である。どこまでも水掛け論はできるだろう。
 ・「大量の食事でおもてなしなんてのは昭和時代の価値観だ」
 ・「ネットに上がるところまでふくめて評判管理するのが現代のサービス業だ」
 ・「ここまでくるともはや営業妨害」
 ・「表現の自由」
 
 何が言いたいかというと、どっちかが正しくてどっちかが間違っている、という議論ではそもそもないのである。自分の考えと違った・自分の考えと同じだった、ということでしかない。傍からみれば、旅館文化はこの男性の好みにあわなかったんだな、あるいはこの男性にとってなじみのない世界だったんだな、ということに過ぎなかったと思うのだが、観念化すると「正しい」「正しくない」という世界になってしまう。この男性は好みにあわなかった旅館文化を「正しい」「正しくない」論にしてしまった。これが不寛容の態度となってあらわれたのである。
 そして、この男性に対しての反論もまた「不寛容」なのである。自分とは感じ方の違う人物がいるんだな、で済まなくなる。なるほどこういう見方の人がいるんだ、で済まされない。この男性は「正しい」「正しくない」という話になる。
 
 あまりにもネットあるあるだし、この程度のネットの炎上は数日もすれば忘れ去られるだろうから、あえてここで記録してみた。
 こういう卑近な例から、ヘイトスピーチやテロリズムに至るまで、不寛容な行為は「こうあるべき」という観念から出発している
 
 
 こういった点をふまえ、自戒も込めてあらためて「寛容論」を読んでみる。
 
 ”不寛容を権利とするのは不条理であり、野蛮である。それは猛獣、虎の権利である。”
 ”ひとつの神をただ心のなかで真なるものとしてあがめるだけでは満足せず、たとえそれがいかにバカげたものであれ多くのひとびとが大事にしている信仰にたいして乱暴を働くならば、そういう者たちこそ不寛容であると言わねばならない” 
 ”形而上学的なことがらにおいて、すべての人間に画一的な考え方をもたせようとするのは、愚の骨頂であろう”
 
 ヴォルテールは、人はみんな少しずつ違うのである、それが「自然」なのだ、と説く。「違い」を「違い」として尊重する。今日の多様性観としてはもはや目新しくないが、「違い」というのは人種・民族・宗教・国籍・性別だけではない。ヴォルテールは「自然」として人々に小さなちがいがあることを示唆する。
 
 ”人間どうしのあいだにはかずかずの小さなちがいがあります。人間の貧弱な肉体をつつむ衣服のちがい、いずれも不十分なわれわれの言語のちがい、いずれもバカげた慣習のちがい、いずれも不十分な法律のちがい、いずれも奇妙な意見のちがい、人間の目には大変な格差に見えても神の目にはほとんど大差ない人間の生活条件のちがい、また「人間」とよばれる微小な原子どうしを区別するこまかいニュアンスの差もあります”
 
 ”しかし、こうした小さなちがいが憎悪や迫害のきっかけにならないようにしてください”
 
 「違い」に対し、不寛容な態度をとるということは、「自然」を無視した態度なのである。(この「自然」とはなにかというのは、「自然権」とも話が結びついていてなかなか面白い)。
 さらにヴォルテールは、不寛容に走りやすくなる特徴、寛容を維持する特徴として、
 
 ”教条(ドグマ)の数が少なければ少ないほど、言い争いも少なくなる。言い争いが少なければ、不幸せも少なくなる。”
 
 と指摘している。「こうあらねばならない」が多ければ多い人ほど、その人は不寛容の罠に入っていくのだ。人それぞれによって「こうあらねばならない」は違ってくるから、これが多い人はその分相いれない人が増えていくのである。
 
 
 それでも人は「不寛容」な態度をとってしまう。ぼくも油断するとついついやってしまう。「不寛容」な態度をとる誘惑に負ける。本能に従うと「不寛容」になっていく。「寛容」であるためには強い意志が必要なのである。(その意味で、右の頬を打たれたら左の頬を出せといったイエス・キリストはすさまじく革命的な発言とも言える)
    そこでどうすれば寛容になれるか。「寛容論」はひとつ重要な点を示唆している。 
 
 それは「不寛容な態度をとった人」は結果的に徹底して叩きのめされるリスクが高い、ということだ。
 
 これは、「人は、誰かに不寛容な態度を示されると、その人に対してこちらも不寛容になる」ということである。先の旅館の食事の多さを指摘した男性の場合もそうだが、彼の投稿に対して炎上したのは、彼の「不寛容さ」に嫌悪感を示し、みんながさらなる「不寛容」で反応したからだ。
 
 弾圧されやすい宗教や集団は、そもそも彼ら自身が不寛容な文化を持っていることが多い。自業自得という言い方はふさわしくないが、不寛容な態度には返り討ちのリスクがあるということは知っておいたほうがよいだろう。
 個人が「これが絶対的な正しい」と確信できることなどほとんどない。このあたりは「無知の知」とか「謙虚」論と一脈通じる部分だ。不寛容が不寛容を生む負の連鎖を引き起こさないために、ヴォルテールは、この有名なテーゼを導き出す。「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」をせめてものとして守っていく、ということである。
 
 

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