読書の記録

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学術書を読む

2021年02月06日 | 哲学・宗教・思想
学術書を読む
 
鈴木哲也
京都大学学術出版会
 
 
 「学術書」というのは何か。
 
 ①研究者や専門家がもっぱら参照するのは論文雑誌(ジャーナル)である。これは一般的な生活者はまず接する機会がない。
 
 ②それから専門書というのがある。専門書店にいくと置いてある。たいてい少部数発行で価格は極めて高い。どちらかというと助成金などをつかって公立図書館や大学や研究機関が買い取ったりする。一般の人が入手するにはかつては書店で注文するしかなかったが、今はAmazonで買うことができる。
 ただし、この専門書も、一般の人はまず読みこなせない。
 
 ③その下に、もう少し社会一般との橋渡し役というか啓蒙書と呼ばれる類のものがある。その多くは、読みこなすには最低限の基礎情報や、あるいは助っ人や補助資料が必要なものもあるが、このあたりから本書でいうところの「学術書」になってくる。新刊ならば大型の一般書店でも並ぶようになる。大学の出版会が刊行していたりもする。
 
 ④さらにその下に、一般者むけの説明を心がけたものもある。出版社も専門出版社というよりは一般書籍を多く扱うところが多くなるし、新書のように価格としても手にとりやすいものがある。新聞などに広告が出たり、書評が載るのもこのあたりだ。
 
 
 実際のところ、③と④の境界はわりとあいまいだ。ジャレド・ダイアモンド共著の「歴史は実験できるのか」は啓蒙書だが「銃・病原菌・鉄」は一般向けと言えようか。本書では②以下を総称して「学術書」としているようだ。
 
 僕は会社勤めのサラリーマンであって、なんの専門職の肩書も持っていないが、このブログでも「学術書」はちょいちょいととりあげている。もっぱら④よりの③か、あるいは④といったところだろう。大学生のころは公立図書館で②を何冊も借り出したりしていたが、社会人となってはほとんど縁がない。このブログでいうと、せいぜいこれが②に属するくらいだろうか。
 
 
 本書は専門外の人が「学術書」を読む意味、およびどんな学術書を読めばよいかの指南書であるが、著者が頑張ってでも学術書を読むことを勧めるのは、今日の時代背景が持つ「わかりやすさ」と「定量評価主義」に警鐘を鳴らしているからだ。
 
 この「わかりやすさ」至上主義の指摘はなかなか面白い。バブル時代ころから急に増えてきたと分析している。
 
 僕が思うに、「わかりやすさ」が台頭してきた遠因として、世の中に出回る情報量の爆発的な増加は多いにそこに関係してきていると思う。時間は1日24時間であることは変わらないから、ひとつの情報に費やせる時間はどんどん短くなる。また、大量のノイズから自分に必要な情報を瞬時に見抜く能力はより強く求められる。
 こういったことはとうぜん「わかりやすさ」を希求することになる。
 
 「わかりやすい」ことそのものは決して悪いことではない。
 
 ただ、かつては「わかりやすさ」とは「ていねいに説明すること」であった。
 いま、ていねいに話をきく余裕が誰にもないのである。なにしろ日々出現する情報の量はあまりにも大量すぎて、ひとつの情報に「ていねい」に関わっている場合ではなくなっている。「わかりやすさ」とは「短い時間で会得できる」という意味となる。そして、短い時間で摂取できる情報を求めるあまり、大事な情報がはしょられたり、論理がすっとんだりする。そして「わかりにくい」事実より、「わかりやすい」話のほうが「真実」にされる、そんな力学がはたらくようになる。当初のうちは「わかりやすさ」は正義だったが、どこかで手段と目的が逆転し、今日は「わかりやすさ」が暴走していると言える。「わかりにくい」ことは罪となった。
 
 「わかりやすい」ことと「ていねいに説明する」ことは同義ではない時代なのである。
 
 
 「定量評価主義」も、この大量情報時代の申し子である。本来はひとつの物差しで測れないものや、そもそも数値化できないものをむりやりスコア換算して序列化するのは、そのほうが処理が早く、わかりやすいからだ。学校や職場での成績を数値化する功罪は「平均主義は捨てなさい」でも指摘されている。
 そして、フォーチュンのグローバル500とか、日本経済新聞のが企業のSDGs進行具合をランキングさせた「日経CSRランキング」とか、東洋経済新報社が日本全国の自治体を対象にした「住みやすさランキング」とかみんなそうである。
 で、実はこれらの「格付け」は、コンサルティングと一体になっている。ランキングを挙げるためには、フォーチュンや日経や東洋経済もしくはそこと息のつながった企業にコンサルティングを受けるとよい。そうすると多額のコンサルティングフィーと引き換えに、ランキングが上がる手ほどきをする。よくしたものである。
 
 だけれど。本当の意味で歴史や地理や世界経済を俯瞰してSDGsを学び理解することと、日経CSRランキングが上がることは同義ではない。同じように、地理や都市社会学や福祉や厚生経済学を学び熟慮することと、「住みやすさランキング」が上がることも同義ではない。ここではやはり断絶がある。
 
 この場合、アカデミズムが現実に即していないと批判すべきか、それとも実ビジネスがアカデミズムを方便にしているのに過ぎない、とみるか。
 
 おそらく両方だろうと思う。事はそう単純ではない。しかし、世の中が「わかりやすさ」を希求している限り、この傾向はますます拡大するだろうとは思う。
 
 
 学術書を読むというのは、あえて「わかりやすさ」に安寧せず、「ていねいに説明する」ものにつきあうということである(ていねいに説明できてない学術書は単なる悪書である)。そうすることで、この「わかりやすい」「定量評価主義」の世の中をメタな視点でみることができる。「日経CSRランキング」や「住みやすさランキング」の陥穽におちいらない、すなわち「利用されない」こと、それこそがリベラルアーツである。

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