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身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけか知っている人生の本質

2020年05月29日 | 哲学・宗教・思想
身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけか知っている人生の本質
 
ナシーム・ニコラス・タレブ 監修:望月衛 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社
 
 
 饒舌男タレブの「身銭を切れ」である。
 
 原タイトルは"SKIN IN THE GAME"。「自己資金投資」という意味だ。したがって和訳を「身銭を切る」でなんの問題もないわけだが、どうもピンときにくい。本書の至るところに「身銭を切る」が出てくるのだが、いまいちしっくりこないなあと思いながら読む。
 つまり、ここで言っている「身銭を切る」はもっと広い意味である。金銭に限らず、自分のキャリアでも自分の名声や立場でも、自分の大事な時間でも。あるいは自分の家族や友人でも。とにかく自分にとって大事なものをリスクにさらしてでもそれをやっているかどうか、が重要ということである。たとえばどこかの営業マンから自分にアドバイスないし商売をしかけらたとき、そのアドバイスが間違っていたり商売の欠陥が出たときにその営業マンがなんらかのハンデを背負うのであれば、そのアドバイスや商売は有効とみることができる。リスクを背負ってでもこの人は自分のことをよくしたいと考えてくれているからだ。逆に言えば、自分は痛くもかゆくもない安全な場所にてそこからやってくるアドバイスや商売は、無責任なものだから基本相手にしないほうがいいということである。会社の上めの人なんかに多い。故・橋本治は「上司は思いつきでものを言う」という名言を吐いている。
 
 というわけで、信頼たる情報か、信頼たる人物か、というのはそれがリスクを背負っているかということなのである。
 
 本書が主張しているのは、この世の中の多くは「身銭を切ってない」人やもので溢れているということなのだ。まあそうだろう。SNSの匿名中傷なんかも最たるものだし、コンサルティング会社のビジネスも、あまた評論家のかずかずもそういうことなのだろう。このブログだって身銭切ってないよねえ。そういったもの全部まとめて「身銭切ってない」ものは信用に足らないし、身銭切らずに生きている連中はどこかで大しっぺ返しくらうと言っている。なんと!
 
 一方で今日の世は、リスク抑え目に、つまり身銭を少なくして、リターン多めに渡り歩くことこそスマートな世の渡り方とされている。簡単な投資や手間で莫大な生産性を生むライフハックやビジネスハックのネタが日々量産されている。
 しかし、こういう生き方が実は「反脆弱性」であることをタレブは前書で指摘していた。本来的にはリスクとリターンはつねに同量でつりあう天秤なのである。たいしたリスクしかおかしていないなら、やはりリターンもたいしたことはない。そして、ライフハックもビジネスハックも、その「スマート」なやり方の歴史がまだ浅いものであったなら、眉唾でみていたほうがいい。多くのハックは定着せずにすぐに消えて無くなってしまう。それどころか、いっけんローリスクハイリターンのようで、実はおそるべき破滅的ハイリスクが裏に隠れていることだって十二分に考えられる。
 
 これらのことをタレブは「リンディ効果」と「エルゴード性」という2つの言葉で繰り返し説明している。本書はこの2つの用語をめぐって、いつものタレブらしく過剰で長大な弁舌で分厚い1冊になったといってもいいくらいだ。
 
 「リンディ効果」というのは、これまで長く使われたものほどこれからも長く使われる、という法則のことである。長期間通用してきたものは、そのぶんハードテストに耐えられたということであり、未来への持続可能性がより高い、ということである。古典ほど未来永劫残る本といわれる所以である。
 まあ、今まで生き残っている、にはそれ相応のわけがあるのだ。「正義は勝つ」というが、「勝つ」=「残る」という意味でいうと残っているものが「正義」である。残れなかったものは正義じゃなかったのである。あなおそろし。リスクを背負ってきた期間が長ければ長いほど、その情報や人物は信頼たるということになる。風雪に鍛えられているのだ。同じ実力の医者ならば学歴や風貌が低いほうを選べ、というタレブの指摘は面白い。偏見と闘って生き残ってきただけのことはある、というリンディ効果なのである。
 
 「リンディ効果」は直観的にわかりやすいが「エルゴード性」のほうはなかなかわかりにくい。どうやら物理学用語ないし数理学用語のようだが、タレブの使うところの「エルゴード性」は人生訓に近いので素の物理学用語の意味でもないだろう。本書でも後になって説明する後になって説明すると引っ張りながら、けっきょくろくな説明がないまま、巻末注釈のややこしい解説で済まされてしまっている。
 が、行間から察するに「これまでの経験知から、未来への持続可能性が推し量れる」のならばエルゴード性がある、と言って良いようだ。いままでこれでやってこれました。だからこれからもこれでやってこれるでしょう。という具合である。一方で、これまでの経験値も、未来の予測不能な事件一発で破滅してしまうようなものはエルゴード性がない、という言い方になる。VUGAの時代はエルゴード性が無い、なんて言い方ができそうだ。
 ここで問題なのは、本当はエルゴード性がないのに、エルゴード性があるかのように錯覚してしまう統計推測や確率ゲームがこの世の中には多い、ということなのである。ロシアンルーレットによる賭けの期待値みたいなものである。弾が6つ入る拳銃でロシアンルーレットをする場合、これを報酬期待値6分の5などとやってはいけないのである。なぜならば残りの1発は命を失うし、命を失ってはもとも子もない。もちろん正常な感覚の持ち主なら、ロシアンルーレットは「割りに合わない」、つまりエルゴード性がないとわかっている。しかし、世の中には統計推測や確率ゲーム、それをネタにした取引や商品が実に多い。それらは本当は「割りに合わない」のに、巧みに偽装されてエルゴード性があるように見えてしまうものが多いのである。
   本当にサバイバルしてきた人(つまり「身銭を切ってきた人」)だけが見かけの統計確率ではなく、エルゴード性の有無をかぎ分ける嗅覚を身につけている。一見公平な取引のようで、実はそうではないものを見抜けるようになるには場数が必要だ。すなわち身銭を切った生き方をしなければエルゴード性の有無を見抜く力は身につかないということだろう。
 
 まあ、要約してみるとこんな感じだ。
 世の中は身銭を切っていない人で溢れ、そういう人はエルゴード性の有無を見抜けていないことが多い。身銭を切ってきた人だけが、リスクを鋭敏にキャッチし、生き抜くことができる。それはリンディ効果が証明している。身銭を切って長い試練に耐えてきた人だけが、未来も持続可能に生き残れるのである。
 
 
 ところで。危険と安全の水準のバーをどのあたりで設定するかは、人それぞれなところがある。これはやめたほうがいいんじゃないか、とか、これはやっても大丈夫だろう判断は本当に個人差がある。どちらも度が過ぎると、臆病者や無鉄砲になってしまうだろう。
 僕の妻は、僕よりも安全バーの水準が低い。ちょっとした買い物から海外旅行まで、僕よりもアグレッシブだ。もっとも妻は妻でもちろん危険と安全の水準をかぎ分けているのである。だからこれは個人差である。僕もあれくらいバーを下げれば、新しい世界に開ける機会はぐっと増えるんだろうな、と思うのだけれど、身にしみたリスク感覚がそれを許さない。
 ただ、僕のほうが妻よりも「やらないことが多い」からリスクが少なくて未来への生存率が高いのかというとそういうことでもないのだろう。「やらないことによるリスク」というのも当然存在するからだ。「やらない」というのはリスク回避というよりは保守的といったほうがよいだろう。
 
 おおむね男性のほうが保守的になりがちとはよく言われる。勤務先の会社なんか見ていても確かにそう思う。
  もしかするとこの世の中、男性より女性のほうが「身銭を切る」機会が多いのではないかとも思う。別の言い方をするとリスクにさらされる機会が多いということだ。なにはやっておいたほうがよいか。なにはやらないほうがよいか。なにはやらずにいるとまずいか。なにはやってしまうとやばいか。たしかにこういうのは肌身を晒して経験しなければ身につかない。男性だって同様の場数は踏むはずだ。しかし、男女が同じことをしても女性のほうがいちいちリスクが高いというところがこの日本社会はあるようにも思う。そうすると、次第に女性のほうがエルゴード性に敏感になってくるのではないか。なんとなく男性よりも女性のほうが自殺率が低いとかうつ病率が低いとか老いても元気という「リンディ効果」はこんなところにもあるんじゃないかと思う次第である。もちろん多いに個人差はあるのだろうが。
 
 
 
 
 

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