読書の記録

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Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章

2021年08月11日 | 哲学・宗教・思想
Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章
 
ルトガー・ブレグマン 訳:野中香方子
文芸春秋
 
 
 近年の社会学や心理学は、人間は環境や条件が整うと極めて邪悪な――暴力的で無慈悲で残忍な行動をとることを指摘してきた。ホロコースト以後、なぜ人間は残忍になるのかというのは人間を考える上で大きなイシューとなった。スタンフォード監獄実験、ミルグラムの電気ショック実験、あるいはキティ・ジェノヴィーズ事件は、人間に潜む邪悪性を浮き彫りにした社会実験や事件としてセンセーションを巻き起こした。
 実際、日々の社会事件や、WebやSNSでの書き込み・炎上など見ていると、人間の邪悪的な側面を嫌というほど見る思いがする。まして歴史を追いかければ、近代以後でも、一般市民の虐殺、無差別殺戮、ジェノサイド、粛清、密告と裏切り合いの酸鼻極まる史実がいくらでも出てくる。
 
 なので僕自身も、人間というのは本来的には邪悪な側面を持っている、という思いでいた。その邪悪さをセーブするのが、近代的理性であり、倫理であり、法の精神であると思っていた。
 
 いや、そうではない。人間が本来もつ遺伝子は「善良」なのだ、というのが本書である。
 実はスタンフォード監獄実験も、ミルグラムの電気ショック実験も、あらためて検証するとあれは言わばでっちあげであったことを本書は告発する。「傍観者効果」を有名にしたキティ・ジェノヴィーズ事件も、あらためて捜査記録を調べると、決して近隣の住民は見て見ぬふりをしたわけではないことがわかる。あれを人間の冷酷性の物語にしたのはひとえにメディアの牽強付会であると喝破する。それどころか、スタンフォード監獄実験のような仕立てを再度実験しても劇的なことは何もおこらなかった事例(よってお蔵入りになって陽の目をみていない)、キティ・ジェノヴィーズと真逆の結果になった実際の事件を探り当て、人間は本来善良であったとするエビデンスを次々と見せていく。
 ジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊」や、スティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」でとりあげられた人間の邪悪な側面についても反論する。それどころかリチャード・ドーキンズの「利己的な遺伝子」にも異を唱える。権威相手に切り込む姿はカッコいいが、相手があまりにも大物ばかりなので本書が「トンデモ本」扱いされないか心配になるほどだ。
 一方、本書のカバー帯には、ユヴァル・ハラリが推奨、斎藤新平が推奨とこれはこれでかなりインパクトがある。
 
 
 本書を読了して、そうか、人間はそもそも善良なんだ、と開眼したかとか目ウロコだったかといわれると、まだ半信半疑な自分がいる。スタンフォード監獄実験はでっちあげだったかもしれないけど、似たような現実例は程度の差こそあれいくらでもあるように思う。傍観者効果だって心当たりある。ヤフコメの心無い書き込みはいやでも目に入る。なによりも悲惨な歴史的事実は動かしようもない。
 
 しかし、本書は必ずしも人間は性善説か性悪説かの原理論だけに拘泥はしていない。むしろ本来は善良であるはずの人間がなぜ時と場合によって邪悪な行為をしてしまうのか。このからくりについて深追いしている。反対から見れば、このからくりさえ見抜けば人間はダークサイドに陥らないのだ。
 
 本書ではいくつかの考察が述べられているが、その中でも人間が邪悪に陥る究極の原因は「いいことをしたつもり」というやつである。いわゆる「正義の暴走」だ。戦争とはどちらも自分が「正義」と思っている。粛清もジェノサイドも加害者側は「正義」のつもりでやっている。SNSの書き込みも本人は正義感でやっている。あおり運転もいじめも「正義は自分にある」と思ってやっている。つまり「善良」ゆえの正義感が暴力的行為及ぶのだ。この邪悪な行為において、当人の「善良」な精神はいっさい棄損していないというパラドクスがここにある。
 
 ここでのポイントは「正義」とはどこまでも相対的で主観的なものだというところだろう。アメリカの正義と中国の正義とロシアの正義と日本の正義は必ずしも利害はかみ合わない。市民と部外者と企業はそれぞれ己が信じる「正義」が異なる。運転者と歩行者と住民の「正義」はそれぞれ違う。まして、キリスト教とイスラム教と仏教とユダヤ教が「正義」と信じるものは多いに異なる。そして正義は習慣だけでなく、教育と洗脳によってつくりあげられる。(本書では「ホロコースト」をドイツ国民が許容したのはナチスによる周到な「教育」があったからとしている)
 
 人はなぜ「正義」に弱いのか。「正義」はなぜ人を動かすのか。本書はそこに人類史――ホモサピエンスの特徴を見る。究極的には「仲間」と「部外者」という線引きの概念がある。本来「善良」たる人間は、仲間思いの遺伝子を持っている。なぜならばホモサピエンスという集団社会で生きていく生命体にとって仲間内から浮くことは生存確率を大いに下げることになるからだ。したがって、仲間を集め、仲間の機敏を察し、仲間から支持され、仲間と助け合う能力に長けるタイプが生き残り、それが子孫をつないでいった。仲間思いは生存戦略なのである。現代においても「孤独」は寿命を縮めるとされている。
 ただし、問題はその「仲間」の範囲だ。多くの場合それは限定的だ。同じ家族、同じ血筋、同じコミュニティ、同じ村、同じ種族、同じ国、同じ民族、同じ人種。あるいは同じ性別、同じ年齢、同じ価値観、同じ生活様式。「仲間思い」の因子を持つ我々人間は、「仲間」かそうでないかにきわめて敏感である。そして「仲間」思いであればあるほど、その「仲間」を守るために排他的になっていく。「仲間」を守り「仲間」を発展させるのが「正義」になる。そのように生存本能にプログラムされている。「共感」という感情は排他と表裏一体なのである。
 
 であるならば「邪悪」に陥らない秘訣は、いかに「仲間」という範囲を広く設定できるかということだろう。ダイバーシティにSDGs。宇宙船地球号。やなせたかし作詞「僕らはみんな生きている」。仲間の範囲を無限抱擁していく思想や試みは続けられている。
 しかし、この仲間の拡大は相当に理性的克服がいるのだというのも肌感的にわかる。多様性を受け入れるというのは直感的にはなかなかに苦痛であり、強い意思がなければ貫徹しない。それくらい本能に反しているのだろう。「差別じゃない、区別だ」という言い分をみたこともある。これに対して「区別が差別の温床になる」という反論もある。さらには「その区別さえしない意志がまず必要なのだ」という意見もある。多様性の受け入れは強い意志のなせるわざである。
 
 本書においては、なぜ「部外者」をネガティブに感じるのか(本書では「外国人恐怖症」という言い方をしている)について、「多元的無知」によるものと指摘している。
 「多元的無知」とは、「自分はよく知らないけれどまわりがそういうからそうなのだろうと思う状態」のことだ。実際において我々の日常生活で得る情報のほとんどは「伝聞」である。スマホを通じたりテレビや新聞や電車の吊り広告で見聞きした情報である。本当に自分自身の目と耳と足で得た一次情報というのは非常に限定的だ。昨今においては情報環境においてフィルターバブルやエコーチェンバーといった「信じたい情報だけどんどん接し、興味ない情報にはどんどん触れなくなる」傾向はますます強くなっている。
 それどころか。そもそも宗教や教育はどこかの誰かによってつくられたストーリーを「伝聞」として我々にインプットしていく。北朝鮮の教育では国語も数学もすべて「アメリカをやっつける」という設定で組まれているそうである。
 また、我々の脳はポジティブなエピソードよりもネガティブなエピソードのほうが強烈に印象や記憶に残るという性質がある(生存本能的にそれは正しい)。よってニュースや口コミネタは、ポジティブネタよりもネガティブネタに衆目が集まり、話題は走る。つまり、伝聞情報はネガティブなものが多く、ネガティブなイメージのほうがストックしやすい。「多元的無知」に依存すると、必然的に「仲間」と「部外者(すなわち敵になりやすい)」の線引きが峻別化しやすくなるのだ。(本書が言うには、ニュースをよくみるエリートがむしろ邪悪面をこじらせやすい)
 
 したがって、「多元的無知」の陥穽にはまらないようにするには伝聞だけに依存しない「交流」、そして良く知らない相手でもあくまで「善良の人間のはず」という己を信じて接することが重要となる。前者は「交流」こそが「仲間意識」の芽生えであり、後者は「ピグマリオン効果」とか「予言の自己成就性」と呼ばれるものだ。中には例外的に狡猾な人がいるかもしれないがおおむねに置いて人は善人として扱われば善人としてふるまうものである。
 
 
 というわけで、あらためて整理して書いてみればやはりなかなか圧巻の内容ではあった。全面的に賛同するかどうかはさておき、僕の穿った心を少しは解きほぐしてくれたようには思う。

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